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2014.01.21

「風立ちぬ」と中国人の目

宮崎駿監督の最近作「風立ちぬ」について、早稲田大学アジア研究機構現代中国研究所の張望講師が寄稿した評論を香港の新聞『明報』(1月21日付)が掲載している。
「風立ちぬ」の主人公堀越二郎は、第二次大戦当時の世界的常識をはるかに超える性能の零戦を設計したことで知られており、そのイメージは研究者あるいは技術者の性格が強いが、張望講師が中国人研究者として、「風立ちぬ」を分析したことは参考に値する。

たとえば、張望は次のように言っている。
「「風立ちぬ」は第二次大戦中、日本最強の零式戦闘機を設計した堀越二郎の夢と愛を語る映画である」
「以前の宮崎監督にはおとぎ話的な題材が多かったが、この作品はがらりと変わって写実的である」「設計士、堀越二郎と文学者、堀辰雄の優れた描写を通して1930年から40年代に至る日本の戦争の歴史を振り返っている」
「この作品には何とも言えない重々しさ(沈重感)と抑圧感(圧抑感)がある。上映終了後、観客には作品を思い出しての笑い声はなく、沈黙のうちに退場していた」
「純粋に飛行機を設計することが好きな青年が、あの戦争期には、国家のため戦闘機を製造することを通じてしか自らの夢を実現する道はなかった。しかも、その成果は軍隊により、神風特攻隊員が自殺的攻撃するのに使われるという、まことに皮肉な結果となった」
「宮崎監督は、この映画を作ったのは、あの苦難な時代を懸命に生きてきた人たちを記念するためだと言っている」

以上は張望講師の印象であり、言わば論評の前段である。そして、「あの苦難な時代を懸命に生きてきた人たち、と言うと、抗日戦争の惨烈な記憶を持つ中国の観衆にはこの言葉の背景にある日本の悲しみは理解困難かもしれない」と問題提起する。要するに、中国人から見れば、日本人は加害者という観念が強く、日本人が苦難の時代を懸命に生きたということなど、思いもよらないだろうと言いながら、以下の日本論(当時の?)に入っていくのである。
「日本の社会においては、「集団(組織)」と「個人」の間にきわめて微妙な緊張関係がある。個人は理想を抱いているが、集団を通じて初めて実現できる。また、一方では、民衆は精神的に集団に依存している。この集団とは政府、会社あるいは団体などである」
そして、張望講師は、日本では国家が自分たちのために働いてくれないと怒ったり、恨んだりするが、他方では、したくないことでも国家のために不承不承することもある、などと分析している。そのバランスが微妙だというのであろう。
このような分析については、評価する人も、しない人もあるはずである。私は、個人主義的傾向が強い中国人らしいと思うと同時に、ひょっとすると、張望講師は共産党の独裁下の中国のことを皮肉っているのではないかという気もしたことを付け加えておく。
いずれにしても、この論評の前段は一般の中国人の反応を意識しつつ、率直な印象を述べているので参考になるかもしれないと思った次第。


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