オピニオン
2017.11.30
日馬富士は、「先輩横綱として『弟弟子』が礼儀と礼節がなっていない時に、それを正し、直し、教えてあげるのは先輩としての義務だと思っています。『弟弟子』の未来を思ってしかったことが、彼を傷つけ、そして大変世間を騒がし、相撲ファン、相撲協会、後援会のみなさまに大変迷惑をかけることになってしまいました」と述べた。
日馬富士が貴ノ岩に対する謝罪を表明しなかったことは問題だと指摘されており、それには同感だが、貴ノ岩を「弟弟子」、自分自身を「兄」とみていることがより本質的な問題である。
日馬富士の説明によれば、貴ノ岩を教育する中で傷つけたということであるが、これは認められない。傷つけることはもちろん、日馬富士が他の部屋の力士を自分の弟弟子とみなしていたことも問題だからである。相撲界では部屋が違うと兄弟子、弟弟子の関係にならず、実際にもそのように呼ばない。
横綱白鵬も問題を起こしている。きわどい勝負に審判員から待ったがかかったのに対し、悪態をついたこともあった。行事が「待った」を認めなかったとして、衆目の前で抗議の姿勢を示し、土俵に戻ってからも不満の面持ちでたち続けたことがあった。さらに、相撲協会が危機に瀕していた九州場所の千秋楽で、めでたいときに行う万歳三唱の音頭を取り、さらに日馬富士と貴ノ岩が土俵に戻れるよう希望すると発言した。刑事事件で起訴される恐れがある人物に対し穏便な措置を求めていると解されても仕方のない発言であった。
日馬富士と白鵬のこれら言動は日本の大相撲には異質で、問題であった。暴力は日馬富士が初めてではなく、以前にもあったが、他の部屋の力士を弟弟子とみなすのは、初めてであった。
日馬富士がそのような考えであったのは、貴ノ岩が同じモンゴル人だからだろう。モンゴル人同士が親しく付き合い、また家族同然の関係にあっても不思議ではないし、日本人としても理解が困難なことでない。日本にも同様の浪花節的関係はいくらもある。
しかし、つねに真剣勝負が求められている相撲界では、他の部屋の力士を自分の兄弟とみなしてはならない。日馬富士はこのことについて理解が足りなかった。
白鵬が問題の言動を行っているのはモンゴル人力士であるためか、表面的には明確でないが、日本人としてはあり得ないことであり、やはりモンゴル人であることが影響していると思われる。日馬富士にしても白鵬にしても、傷害は別として、許容範囲内と思っているのだろうが、日本の相撲界では許されないことに気が付いていないのだ。
彼らが、日本の社会でも特に特殊な相撲界で文字通り血の出る努力をし、日本社会をよく理解し、日本語を学んできたことに疑義をさしはさむ余地はなく、日馬富士の記者会見での発言にもそのような努力の跡がにじみ出ていた。それは明らかだが、彼らには相撲界の倫理が不足していると見るべきだろう。
彼らに倫理がないというのではなく、普通の倫理はあり、土俵で審判に異議を唱えても、それは許されないことだとは考えない。他の競技では、たとえば、テニスなどではしばしば生じていることであるが、異議を唱えることが悪だと思われていないのと同じ理屈である。
ただ、相撲界ではそれは認められない。両力士とも抜群の力量と技能を身に着けている。また、精神力も備えている。しかし、日本の相撲界の倫理をまだ十分に体得していないのだ。それは何も驚くべきことでない。日本人でも、倫理性が十分でない人間は、残念ながら、少なくない。
一方、日本の相撲とその伝統的倫理を絶対視し続けることには疑問を覚える。外国人力士を相撲界は必要としている。数が少ないうちは、外国人力士の影響を斟酌する必要はないだろうが、多くなれば、その影響力が出てくるのは自然であり、相撲界としてどのように受け止めるかという角度から見ることも必要になる。
相撲協会は実際どのように対処しているか。白鵬が行事や審判に不服を示したとき、審判員はその場で厳しくたしなめず、後で注意したそうだ。それは慎重な対応であったが、相撲界の倫理を維持する上で適切であったか疑問である。その場は穏便に済ますというような事なかれ主義でなかったか。
「モンゴル化」を誇張してはならないが、それが進行すると大相撲は成り立たなくなる。白鵬の言動にはその危険があると見るべきではないか。
将来、大相撲の伝統とモンゴル人力士によってもたらされる変化のあいだで折り合いをつけることが必要となるかもしれないが、当面は、相撲界の倫理の維持に努力を集中し、そのうえで可能な限り修正していくことが肝要だ。倫理の学習は教室で教えてもなかなか身につかない。今回の事件だけでなく白鵬の問題についても、小手先で済ますのでなく、その根底にある大きな問題に正面から取り組むべきではないか。
横綱日馬富士の引退だけが問題でない
横綱日馬富士が、約1か月前の貴ノ岩に対する暴行が原因で11月29日、引退届を日本相撲協会へ提出した。暴行事件の真相は、日馬富士自身暴行したことは認めているが、詳細は明確になっておらず、警察が捜査を進めている。そんな中での引退届の提出、それに引き続く記者会見であり、まだ納得できないという印象を抱いている人は少なくないようだが、一つ明確になってきたことがある。日馬富士は、「先輩横綱として『弟弟子』が礼儀と礼節がなっていない時に、それを正し、直し、教えてあげるのは先輩としての義務だと思っています。『弟弟子』の未来を思ってしかったことが、彼を傷つけ、そして大変世間を騒がし、相撲ファン、相撲協会、後援会のみなさまに大変迷惑をかけることになってしまいました」と述べた。
日馬富士が貴ノ岩に対する謝罪を表明しなかったことは問題だと指摘されており、それには同感だが、貴ノ岩を「弟弟子」、自分自身を「兄」とみていることがより本質的な問題である。
日馬富士の説明によれば、貴ノ岩を教育する中で傷つけたということであるが、これは認められない。傷つけることはもちろん、日馬富士が他の部屋の力士を自分の弟弟子とみなしていたことも問題だからである。相撲界では部屋が違うと兄弟子、弟弟子の関係にならず、実際にもそのように呼ばない。
横綱白鵬も問題を起こしている。きわどい勝負に審判員から待ったがかかったのに対し、悪態をついたこともあった。行事が「待った」を認めなかったとして、衆目の前で抗議の姿勢を示し、土俵に戻ってからも不満の面持ちでたち続けたことがあった。さらに、相撲協会が危機に瀕していた九州場所の千秋楽で、めでたいときに行う万歳三唱の音頭を取り、さらに日馬富士と貴ノ岩が土俵に戻れるよう希望すると発言した。刑事事件で起訴される恐れがある人物に対し穏便な措置を求めていると解されても仕方のない発言であった。
日馬富士と白鵬のこれら言動は日本の大相撲には異質で、問題であった。暴力は日馬富士が初めてではなく、以前にもあったが、他の部屋の力士を弟弟子とみなすのは、初めてであった。
日馬富士がそのような考えであったのは、貴ノ岩が同じモンゴル人だからだろう。モンゴル人同士が親しく付き合い、また家族同然の関係にあっても不思議ではないし、日本人としても理解が困難なことでない。日本にも同様の浪花節的関係はいくらもある。
しかし、つねに真剣勝負が求められている相撲界では、他の部屋の力士を自分の兄弟とみなしてはならない。日馬富士はこのことについて理解が足りなかった。
白鵬が問題の言動を行っているのはモンゴル人力士であるためか、表面的には明確でないが、日本人としてはあり得ないことであり、やはりモンゴル人であることが影響していると思われる。日馬富士にしても白鵬にしても、傷害は別として、許容範囲内と思っているのだろうが、日本の相撲界では許されないことに気が付いていないのだ。
彼らが、日本の社会でも特に特殊な相撲界で文字通り血の出る努力をし、日本社会をよく理解し、日本語を学んできたことに疑義をさしはさむ余地はなく、日馬富士の記者会見での発言にもそのような努力の跡がにじみ出ていた。それは明らかだが、彼らには相撲界の倫理が不足していると見るべきだろう。
彼らに倫理がないというのではなく、普通の倫理はあり、土俵で審判に異議を唱えても、それは許されないことだとは考えない。他の競技では、たとえば、テニスなどではしばしば生じていることであるが、異議を唱えることが悪だと思われていないのと同じ理屈である。
ただ、相撲界ではそれは認められない。両力士とも抜群の力量と技能を身に着けている。また、精神力も備えている。しかし、日本の相撲界の倫理をまだ十分に体得していないのだ。それは何も驚くべきことでない。日本人でも、倫理性が十分でない人間は、残念ながら、少なくない。
一方、日本の相撲とその伝統的倫理を絶対視し続けることには疑問を覚える。外国人力士を相撲界は必要としている。数が少ないうちは、外国人力士の影響を斟酌する必要はないだろうが、多くなれば、その影響力が出てくるのは自然であり、相撲界としてどのように受け止めるかという角度から見ることも必要になる。
相撲協会は実際どのように対処しているか。白鵬が行事や審判に不服を示したとき、審判員はその場で厳しくたしなめず、後で注意したそうだ。それは慎重な対応であったが、相撲界の倫理を維持する上で適切であったか疑問である。その場は穏便に済ますというような事なかれ主義でなかったか。
「モンゴル化」を誇張してはならないが、それが進行すると大相撲は成り立たなくなる。白鵬の言動にはその危険があると見るべきではないか。
将来、大相撲の伝統とモンゴル人力士によってもたらされる変化のあいだで折り合いをつけることが必要となるかもしれないが、当面は、相撲界の倫理の維持に努力を集中し、そのうえで可能な限り修正していくことが肝要だ。倫理の学習は教室で教えてもなかなか身につかない。今回の事件だけでなく白鵬の問題についても、小手先で済ますのでなく、その根底にある大きな問題に正面から取り組むべきではないか。
アーカイブ
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年9月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年4月
- 2019年3月
- 2019年2月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月
- 2018年4月
- 2018年3月
- 2018年2月
- 2018年1月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年9月
- 2017年8月
- 2017年7月
- 2017年6月
- 2017年5月
- 2017年4月
- 2017年3月
- 2017年2月
- 2017年1月
- 2016年12月
- 2016年11月
- 2016年10月
- 2016年9月
- 2016年8月
- 2016年7月
- 2016年6月
- 2016年5月
- 2016年4月
- 2016年3月
- 2016年2月
- 2016年1月
- 2015年12月
- 2015年11月
- 2015年10月
- 2015年9月
- 2015年8月
- 2015年7月
- 2015年6月
- 2015年5月
- 2015年4月
- 2015年3月
- 2015年2月
- 2015年1月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年9月
- 2014年8月
- 2014年7月
- 2014年6月
- 2014年5月
- 2014年4月
- 2014年3月
- 2014年2月
- 2014年1月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年9月
- 2013年8月
- 2013年7月
- 2013年6月
- 2013年5月
- 2013年4月