オピニオン
2016.02.26
その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
09年4月にはテポドン2号を日本の上空を通過するルートで発射した。
南北間ではその後もさまざまな試みがあったが、関係改善にはつながらなかった。
李明博前政権の外交姿勢
朴槿恵大統領の外交姿勢の転換について、2月24日、東洋経済オンラインに「韓国が「親米」「親日」へとカジを切った事情」を寄稿した。その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
09年4月にはテポドン2号を日本の上空を通過するルートで発射した。
南北間ではその後もさまざまな試みがあったが、関係改善にはつながらなかった。
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