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2017.08.10

内閣改造②シビリアン・コントロール

 南スーダンへの自衛隊PKO部隊の派遣は憲法の文民統制(シビリアン・コントロール)についてあらためて考える機会になった。
 問題は、派遣部隊が作成していた日報の開示が求められたのに対し、防衛省は調査の結果として、すでに破棄したと答えたことからはじまった。しかし、さらにある自民党議員によって再調査が求められた結果、日報が統合幕僚監部に残っていることが判明した(12月末)。このことが稲田防衛相に報告されたのは、翌年の1月末であった。
 さらにその後、日報は派遣部隊の親元である陸上自衛隊にも残っていたことが判明した。そうなると、防衛省の最初の「破棄した」との説明と矛盾してくる、虚偽の回答をしたと追及される恐れもあった。発見された日報の取り扱いに苦慮した防衛省では、2月15日、稲田防衛相、岡部陸上幕僚長、事務方トップの黒江事務次官らが出席して対応を協議し、「不公表」とすることに決定した。しかし、後日、その経緯も外部に漏出した。
 この間、稲田防衛相は国会で答弁の矛盾、事実関係の説明の不明確さ、防衛省内の把握の不十分さを指摘された。これに対し稲田氏は、自身が指示して徹底的に調査し、日報を公表させたとし、「シビリアン・コントロールは効いていた」と強調した(3月17日の記者会見)が、国民の納得を得ることはできなかった。
 
 問題点は、大きく言って二つある。稲田氏の防衛相としての言動が適切であったかという問題と、現憲法が定めるシビリアン・コントロールは適切かという問題である。前者については、今後国会などにおいて解明がすすむことを期待したい。本稿では後者の制度問題を取り上げる。

 まず、日本国憲法の下では、そもそも「シビリアン・コントロール」を論じる余地はあるのか、という疑問がある。憲法9条によれば、日本には「軍」はないので、シビリアン・コントロールの必要もないとも考えられるからである。しかし、日本は自衛のために武装した自衛隊を持っているので、やはり、シビリアン・コントロールの必要があるだろう。
 具体的には、シビリアン・コントロールは、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定(66条2項)によって確保されていると解されている。しかし、これでシビリアン・コントロールが十分とは言えないと思う。
 現憲法では、旧憲法下のように陸軍が強引に内閣を倒すことは不可能になっている。この点では改善しているのだが、次のような問題が残っている。

 第1に、防衛相に就任する人はつねに能力があるとは限らない。自衛隊を適切に監督できる人もいれば、できない人もいる。防衛相は、例えば、政治資金規正法違反の理由で刑事罰を受けるかもしれない。また、自衛隊を政治目的に濫用するかもしれない。
 自衛隊から見ても心底から仕えたい防衛相もいれば、信頼できないとみなす人もいる。これらは通常、表で語られないことであるが、現実には問題になりうることが今回の事件で露呈された。要するに、文民がトップであってもそれだけでは安心できないのである。内閣の構成員が文民でなければならないのは、シビリアン・コントロールの必要条件であるが、十分条件ではないのだ。

 第2に、自衛隊の主張には説得力があり、防衛相がそれを承認しないとするのは困難なことである。たとえば、自衛隊が作戦Aで成功しなかったので作戦Bが必要と主張するケースを考えてみる。政府は諸外国との関係など総合的な考慮から作戦Bを実行すべきでないと判断しても、防衛相ははたして作戦Bを不許可とできるか。理論的にはもちろんできるはずだが、実際には自衛隊は現場をよく知っており、よく考えて防衛相に上げてくるだろうからその主張には説得力がある。
 また、かつての帝国軍隊の場合は、作戦を途中で変更すると、それまでの犠牲を「無駄にするのか」という議論が使われた。
 一方、政府の判断は多かれ少なかれ妥協が含まれており、したがって説得力は弱い。自衛隊の考えのほうが理屈にかなっているように見えることがありうる。
 しかし、それでも自衛隊の主張を退け、政府の判断に従わせなければならないことがある。これがシビリアン・コントロールであるが、単に上に立つ政府が自衛隊を押さえつけるということでなく、長い目で見ると妥協をした政府のほうが正しかったことが分かってくるのである。これは裁判の証明のようなことでないが、歴史の教訓である。
 日本の憲法規定は米国に習ったものであるが、実は、日米のシビリアン・コントロールは異なっているところがある。米国ではシビリアン・コントロールはよく効いているように見えるが、実際にはシビリアン・コントロールは簡単でなく、あらゆる手段で確保に努めなければならないと認識されている。
 これに比べると、日本のシビリアン・コントロールは、憲法の規定はあるが、自衛隊の海外での武力行使は今までは皆無であり、したがってまた、シビリアン・コントロールが本当に必要になる事態には立ち至ったことがなかった。つまり経験が乏しいので、シビリアン・コントロールの議論は机上の空論に陥るのである。旧憲法下では問題とすべき事例が多数あったが、旧軍のことは現在の自衛隊とはほぼ完全に切り離されており、参照すべき前例とは認識されていない。

 今後どうすればよいかだが、憲法を改正して自衛隊を正規の防衛軍にするなら、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則を明記すべきだ。つまり、文民によるコントロールは人の面からの規制であり、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則はルールの問題であり、両方が必要である。そして、この二つの原則の下でシビリアン・コントロールが必要な諸事項、とくに、政治にかかわってくる問題について自衛隊がどこまで研究したり、主張したりできるかを法律で規定すべきである。かつて、自衛隊員が有事の場合の対応に関する法制上の欠陥について研究したことが問題視されたことがあったが、一概に否定されるべきことでなかった。それは一定程度まで、つまり、シビリアン・コントロールに反しない限度内では認められてしかるべきことであった。
 さらに、制度面の措置とともに、戦前の軍による暴走とそれをコントロールできなかった政治の欠陥などを含め歴史を徹底的に見つめなおし、その結果を政府と自衛隊の在り方に反映させ、自衛隊が政府に反旗を翻すようなことはあり得ないようにする努力が必要である。


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