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2019.02.14

韓国国会議長の妄言と安倍首相の対応

 韓国の文喜相(ムンヒサン)国会議長が米ブルームバーグ通信とのインタビューで、慰安婦問題について「日本を代表する天皇が謝罪されるのが望ましいと思う。その方はまもなく退位すると言われるから。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。だから、その方がおばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言言えば、すべて問題は解消されるだろう」と述べ、注目を浴びた。

 韓国国会の報道官は、文議長は「戦争犯罪」という言葉を使っていなかったなどと弁明したが、ブルームバーグはインタビューの音声を公開するなどしたので、文議長の発言として伝えられたことは正確であったとみてよい。

 文議長は、無知、無責任、無礼である。

 「無知」というのは、昭和天皇が「戦争犯罪人でない」ことを知らないからである。昭和天皇は極東国際軍事裁判(いわゆる東京軍事裁判)でも、また、他のどこでも「戦争犯罪」を犯したと判断されたことはない。
 
 ちなみに「戦争犯罪」の意味は注意して見ていく必要がある。「戦争犯罪」とは、「戦時国際法に違反する罪のことで交戦法規違反をさす」という教科書的説明もあるが、これは法技術的な説明である。政治的な責任にも踏み込む説明もあり、「戦争犯罪」の意味はかならずしも明確になっていない面がある。
 
 具体的に誰が、どのような「戦争犯罪」を犯したかについては、どのような根拠で、また、どのような手続きを経てそう判断されるかを明確にしておかなければならない。これは重要な問題だ。その点を明らかにしないまま「戦争犯罪人」だと決めつけると人権侵害になるおそれがある。
 
 日本の場合、極東国際軍事裁判および一連の戦争裁判により誰が、どのような「戦争犯罪」を犯したが確定されている。それ以外の場で日本人が「戦争犯罪」を犯したとされたことはない。

 これらの裁判については、日本として認めるべきでないとの主張があるが、日本は戦後独立を回復するにあたって、サンフランシスコ平和条約により一連の戦争裁判の結果を受け入れたので尊重する義務がある。

 つまり、「戦争犯罪」についてどのような立場をとるかに関わらず、昭和天皇が「戦争犯罪」を犯したと判断されたことはないのである。

 文議長が「無責任」というのは、今回の発言が正しくなくても同議長は何ら責任を取らないし、また取れないにもかかわらず発言しているからである。
 文氏の発言は1965年の日韓基本条約・請求権協定や慰安婦問題に関する2015年の日韓両政府間の合意ほどの意味も重要性もない。かりに文議長の主張通りに日本側が対応しても問題が解決しない場合どうなるか。それは誤りであったと簡単に覆されるだろう。

 「無礼」というのは、戦争犯罪人でなく、日本の元首であり、日本国と国民統合の象徴として尊敬されている昭和天皇に対して極めて失礼なことを言ったからだ。
 
 しかるに、安倍首相の対応は適切であったか。安倍氏は、「多くの国民が驚き、かつ怒りを感じたと思う」、「甚だしく不適切であり、また、同議長はその後も同趣旨の発言を繰り返している。これは極めて遺憾だ」と国会で述べているが、この答弁も問題だ。

 なぜ、「昭和天皇は戦争犯罪人ではない」と明言しないのか。国民が怒りを覚えていることに言及するのは結構だが、それは国民の感情である。それも重要だが、昭和天皇に関する重大な事実誤認を正すのが先決であろう。その必要性に比べれば、国民の怒りも安倍氏が遺憾に思っていることも二次的な問題である。安倍首相の答弁は、ふわっとしている印象が強い。いつもの通りかもしれないが、内容が大事なはずだ。

 日本政府は5回にわたり韓国政府に抗議し、謝罪と撤回を求めたという。それも結構だが、鼎の軽重を間違えてはならない。韓国側にそのように行動をすることを求めるまえに、「昭和天皇は戦争犯罪人でない」と断言しておくべきである。日本政府はそのことを明確にしたのだろうか。どうも疑問である。

 日韓議員連盟会長の額賀元財務相は、韓国の李洛淵首相と会談した。会談後、額賀氏は記者団に、「しっかりと反省して、今後、日韓関係についてよく働いてもらうように伝えてほしいという話をした」と語ったという。額賀氏の発言は前向きだが、それだけでは足りない。やはり、文氏の発言の問題性を正しく指摘しておくべきであった。

 野党も「昭和天皇は戦争犯罪人でない」ことに十分注意し、また、国会でしかるべき質問をしたか、非常に疑問である。

 昭和天皇に戦争責任があるかいなかを議論するのを止めろとは言わない。しかし、「戦争犯罪人である」などとありもしないことを言われた場合には、日本人としてそれを明確に否定しておかなくてはならない。相手国の立場を尊重して慎重に対応するのは結構だが、明らかな誤認は指摘しておくという姿勢が必要である。
2019.02.11

自衛隊の多国籍軍への派遣

 日本政府は今春にも、シナイ半島でエジプト軍とイスラエル軍の活動を監視している多国籍監視軍(MFO)に参加する方針を固めたと伝えられている。現地で連絡調整を担う司令部要員として自衛官2人が派遣される予定だという。2015年に成立した安全保障関連法によって付与された、新たな海外活動の初適用である。

 この法律は成立の時から憲法違反の疑いが濃厚であった。

 まず、憲法は日本が国際紛争に巻き込まれたり、参加したりすることを厳禁している。戦後、日本は自衛隊を持つこと、また、自衛の行動は許されるかについて議論があったが、「自衛」であれば許されるとの解釈が確立した。この解釈は国民の多数によって受け入れられている。
 しかし、国際紛争は自衛でなく、第三国間の紛争であり、それに日本が参加したり、巻き込まれたりしてはならない。これは憲法の大原則である。

 憲法の条文に即して言えば、第9条であり、とくにその中の、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」であり、「武力の行使」は自衛の場合にのみ認められているのである。

 国際紛争に参加しないことは国連と矛盾しない。国連では、世界各地で発生する紛争を鎮め、平和を回復するのに努めているが、紛争が終了した後とまだ終了していない場合を区別し、前者の場合は「平和維持活動(PKO)」として、そのために国連の指揮下にある部隊を派遣している。いわゆるPKO部隊であり、日本も参加してきた。

 後者の、紛争がまだ終了していない場合も国連は関与するが、国連として部隊を派遣することはない。国連憲章においては、平和の実現のために国連が軍事力を用いること、つまり「国連軍」を派遣することが想定されているが、実際にはこの規定は実現不可能になっている。国連には「国連軍」はないのである。

 しかし、紛争が終了していなくても、国連は関係国に平和を回復するよう呼びかけることなどは可能であり、実際にそのための決議を採択している。

 つまり、国連はあらゆる国際紛争に関わり、平和を回復するため決議などは採択するが、国連が部隊を派遣して行動するのはPKOの場合だけなのである。国際紛争への参加を禁じている日本国憲法はそのような国連のあり方とも平仄があっている。

 一方、紛争が継続中である場合、限定された数の国だけが参加する「多国籍軍」と呼ばれる部隊が構成され行動することがある。2003年のイラク戦争はその典型であった。このような場合でも国連は決議を採択して各国に努力を求めるが、国連としては行動しない。

 また、「多国籍軍」の場合は、国連内の意見が分かれるので国連として決議したかどうかさえ不明確であり、そのこと自体があらたな紛争の原因になることもある。イラク戦争の場合には実際そのような問題が発生した。国連内の意見が分かれたのは、西側諸国とロシアや中国という保守的な国との間に限らず、西側のなかでも米英などと独仏などの意見は鋭く分かれた。

 日本は憲法の定めにより本来参加できないはずであるが、アフガニスタン戦争およびイラク戦争の際には協力するということを政治的に決断し、特別法を作り、実際の戦闘が行われている場所から離れているところで、物資を運送したり、道路の補修など後方支援であれば可能とみなして参加した。

 そして2015年には、「国際平和支援法」を制定して、アフガニスタン戦争やイラク戦争と同様の場合には、特別法に寄らずともいつでもできるようにした。

 しかし、同法が憲法に違反している疑いは今も濃厚である。後方支援であっても、日本は敵味方両方に同じ支援行動を行うのではなく、国際紛争に陥っている一方に加担することになる。後方支援は目立たないだけであり、どちらに味方しているかは明らかである。要するに、今回想定されているような連絡調整であれ、その他の後方支援であれ、国際紛争に参加するいう本質は変わらないのだ。

 国連が国際の平和のために活動を強化することは原則的に望ましいが、実際には、「多国籍軍」についてはコンセンサスが成立しにくい。にもかかわらず「多国籍軍」に参加している国は、できるだけ多くの国が参加することを強く求める。米国もしかりである。だからこそ、日本が巻き込まれる危険は大きい。

 では、日本はそもそも憲法を改正して国際紛争にも参加できるようにすべきか。一般論として、憲法は一切改正すべきでないなどと硬直した姿勢は取らない。しかし、日本が過去に行った戦争の性格、戦争責任の所在、軍人の行動規制、組織間のたこつぼ現象(海軍と陸軍の確執など)、各国との協力のあり方について生半可な反省しか行われていない現実にかんがみれば、憲法を改正して国際紛争にも参加できるようにすることなどそらおそろしい迷走である。

 現状は、憲法との関係にはできるだけ口をつぐんで、その原則をなし崩し的に変えようとしているのではないか。
2019.02.01

日本とイランの選手の行動形態に見る文化の違い

 第17回アジアカップ準決勝で日本はイランに3-0で勝利した。この試合の中で、イランの選手が日本選手に暴行ともとれる過激な振る舞いを行ったことについて。イラン国内でも批判的な声が上がった。イラン議会のアリ・モタハリ副議長は、自身のインスタグラムで選手への処分を求めたという。同議長の発言は冷静な判断結果であった。

 この試合においては、その件とは別に、もう一つ印象的なことがあった。日本の南野選手がイランの選手に倒されながらも素早く立ち上がり、ボールがゴールラインを割る直前に追いつき、一転してゴール前にセンタリングを送り、大迫選手が頭でねじ込んだことである。これが先制点となり、その後日本はさらに2点を加えて快勝した。
 
 このプレーについては、「イランの選手がプレーを中断してしまったのに、日本はプレーを続けた」とか、「ペナルティーエリア付近での主審への集団抗議は幼稚だ」などと評されているが、それだけでは表面的な感想に過ぎない。なぜ、南野選手はプレーを続けたのに、イランの選手はそれを追いかけなかったのか。なぜ日本の選手とイランの選手の行動に違いが出たのかが大事なポイントである。

 イランの選手がボールに向かって走っている南野選手を追いかけなかったのは、南野選手と接触して倒したが、それはイラン側のファウルではないことを審判にアピールするためであった。その気持ちは分からないでもない。ファウルと認定されれば、ゴールに近い距離からフレーキックを与えることになるので、非常に危険である。なんとかしてそうなるのを防ぎたかったのだろう。

 一方、南野選手は、審判がプレーを止めていないかったので、当然プレーを続行し、ボールに追いつき、反転して決定的なセンタリングを送ることができた。つまり、権利主張よりもルールに従ってプレーすることに専念し、その結果、絶好のチャンスをつかみ、素晴らしいプレーをしたのである。

 南野選手と違ってプレーを止めたのは一人のイラン選手でなく、付近にいた数人の選手もみなそうであった。つまり、数名のイラン選手は、だれもがボールを追いかけることより、自分たちがファウルをしたと判断されることを恐れたのである。瞬時ではあったが、両国選手の行動形態には重要な違いがあった。イランでは権利を主張したり擁護することを重視し、日本ではルールに従ってプレーすることを重視するという文化の違いが表れていたと思う。

 日本の森保監督は常々、審判がプレーを止めるまで手を抜くな、と教えているそうだ。そのことも大きな要因だったとは思うが、かりに同監督がイラン・チームを率いていたとしたら、イランの選手ははたして違った行動を取ったか疑問である。やはり権利主張(擁護)を優先させたのではないかと思われてならない。

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