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2016.12.06

日朝のかすがい、対馬の印象

 11月29日~12月1日、対馬を訪れた。長い間希望していたがなかなか実現しなかった訪問だった。
 対馬は江戸時代、日本外交の最前線であったが、そのことはあまり知られていない。江戸時代の対外関係と言えば、長崎におけるオランダおよび清国との接触しか頭に浮かばない人が多いだろうが、実は、江戸幕府は対馬藩を通じて李朝朝鮮とさまざまな関係を結んでおり、それは外交と呼ぶのにふさわしいものだった。たとえば、国交の回復、貿易の再開、何千人もの朝鮮人捕虜の解放・帰国などである。
 明治になってからも対馬は注目されなかった。わずかに対馬沖の海戦だけが有名だが、日本の安全保障の最前線だったこともある。
 対馬の現状と一般の認識とはかなりのギャップがあるのだ。そんな対馬の現状を自分の目で確かめるのが旅の目的だった。
なお、対馬のこと、とくに外交を語るには、今日の外交にも立派に通用する国際感覚と熱意の持ち主であった雨森芳洲を忘れるわけにいかないが、本稿では特に言及しないことにした。
 
 対馬で出会った旅行者はすべて韓国人だった。これほど韓国人旅行者の比率が高いところは世界中を見渡してもほかにないだろう。
 韓国人旅行者の行動については、日本人から見て眉をひそめるようなことも少しあったが、礼儀正しい人にも出会った。こちらはちょっとしただけだったが、丁寧に「カムサハムニダ(ありがとうございます)」と言われたこともあった。振る舞いに気を付け、礼儀正しくしようと努めている印象だった。
 
 韓国人は土地を買い占めているとも言われている。特にそのことについて調べたわけではないが、対馬は平地が少ないのでそういうことであれば目立つし、反発も起こるだろう。
 対馬の人口は減少傾向にあり、最も多かった1960年の6万9千人と比べると、今はすでにその半分以下になっている。そのような状況では、韓国人が土地を購入する、もっと正確に言えば不動産の売買に韓国人が混じるのはむしろ自然なことである。
 司馬遼太郎の『壱岐・対馬の道』に出てくる永留久恵氏は対馬の事情に詳しく、何冊も本を書いている。『対馬国誌 第三巻 戦争と平和と国際交流』では対馬の振興、韓国との交流などについて論じているが、「土地の買い占め」のようなことは何も書いていない。そのことだけで、また、市役所に尋ねもしないで「買占めなどない」と断定できないのはもちろんだが、大きな問題になっていないのではないかという印象だった。

 対馬は長らく日本防衛の最前線だった。その名残は対馬の処々に残っている。歴史を追ってみていくと、まず、663年、百済を救援するため出兵した日本軍が白村江の戦で新羅・唐の連合軍に敗れたことから始まる。当時、日本では新羅・唐軍が戦勝の勢いで日本に攻めてくるのではないかと恐れ、西日本各地で防衛体制を整備した。その最前線が対馬であり、現在「城山」と呼ばれる半島に「金田城」を築いた。
 大和朝廷は各地から「防人」を対馬へ派遣した。防人は人間味あふれる人たちであり、遠く離れた地で家族を思う心情を歌に詠んだ。防人が高い文学的素養も備えていたこと、そしてまた防人の歌を歌集(万葉集)に採録したことも驚嘆に値する。

 防人は金田城だけでなく対馬の各地に送られた。その一つが、金田城と同じく浅茅湾に面している「竹敷」だった。万葉集には「竹敷」から始まる歌だけでも数首ある。対馬には、防人が詠った場所としてスポットされた場所が数か所あり、その地で詠まれた歌が記念碑に刻まれている。

 それから約6百年後の1274年、日本に侵攻した蒙古(元)軍3万3千のうち約千の軍勢が対馬に来寇し、島の西南部の小茂田浜に上陸した。これを迎え撃ったのは宗助国以下の60騎。衆寡敵せず全滅した。死者を祭った小茂田神社、宗助国の首塚、胴塚などが残っている。
 蒙古軍は金田城にも向かった可能性がある。浅茅湾に入ったばかりのところに「尾崎」という小村があり、蒙古の船団はそこを拠点とした。船が集まるのに適した地形である。現在はマグロの養殖がおこなわれており、多数の筏が見えている。

 次に歴史に登場したのは「倭寇」であった。李氏朝鮮も明も倭寇に荒らされ、対応に苦慮した。日本人ばかりでなく、朝鮮人も中国人も交じっていたと言われているが、その活動の一拠点が浅茅湾内にあったそうだ。
 浅茅湾とは対馬の中央部を西側から割って入る形になっている内水であり、リアス式の複雑な海岸に囲まれて多数の小島が浮かんでいる。隠れるところがいっぱいあったのだろう。今は壱岐対馬国定公園として指定され、風光明媚な地としてPRされている。

 秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄慶長の役)においても対馬は前進基地となった。これはあまり語られないことだが、対馬の中心都市、厳原の八幡宮の背後にある清水山は肥前の名護屋(秀吉が築いた朝鮮侵略の拠点)から壱岐を経由して送られてくる物資の中継地であった。
 実証されたことでないのであえて順を追って記さなかったが、神功皇后の「三韓征伐」の際にも「対馬国に御着船あり」、また半島から帰国に際しては「清水山に行幸あり」と八幡宮神社の案内に記載されている。同社の縁起にそう書いてあるのだろう。神功皇后のことは神話に過ぎず歴史とは言えないというのが通説だが、このように実感のある説明を聞くと、はたして神話と片付けてよいかという疑問もわいてきた。

 さらに時代を下って日清、日露戦争時には対馬各地に砲台が築かれた。その数は30にも上ったので対馬全島が要塞化したと言われたそうだ。現在でも多数残っており、観光スポットになっていると観光案内に書いてあるが、ちょっと準備していかなければ難儀するだろう。
 城山には金田城跡以外に、日露戦争に備えて建設された砲台や軍道があり、今は「城山トレッキング」のコースになっている。今回の旅ではそこへ入ることはできなかったが、再度対馬へ行く機会があればぜひ行ってみたいところだ。
対馬沖海戦は対馬の東側で行われ、島からよく見えたそうだ。島民は、船が撃沈され島に上陸したロシアの軍兵を親切に救助したと伝えられている。

 歴史上の激戦地はいくつもあるが、このように4回も日本の歴史に登場するところは対馬以外にない。対馬は朝鮮半島から50キロ弱の距離にあり、晴れておれば北端の韓国展望台から肉眼で釜山の町の灯を見ることができる。また、釜山からの距離は対馬のほうが済州島よりはるかに近い。対馬が日本防衛の最前線となったのはこのような地理的関係にあるからだが、対馬に住む人たちにとっては大変なことだったはずだ。
 江戸時代の日朝外交では対馬藩による国書の偽造が有名だが、対馬藩だけの責めに帰せられるべきことでない。朝鮮との貿易を継続したい江戸幕府が日本のナンバーワンでないのに李王朝を対等の相手とし、かつ相手方の事情を無視して要求を通そうとしたことから生じた問題であり、それを解決しないまま結果を出すこと、つまり円滑な通交を対馬藩は求められた。強制されたに等しかった。厳原の資料館には国書偽造のため使用した10センチ四方の印鑑が展示されている。

 現在の対馬は一見過疎化に悩む山間地のような印象だ。複雑な歴史の跡を見るにはいささかの努力が必要だが、十分値する。

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