平和外交研究所

7月, 2016 - 平和外交研究所 - Page 5

2016.07.07

スプラトリー諸島(南沙諸島)と「聖ヨハネ・コロニア王国」

 7月12日に国際仲裁裁判の決定が出る予定のスプラトリー諸島(中国名「南沙諸島」)について、フィリピン、中国、台湾およびベトナムが領有権を主張していることは広く知られているが、そのほか、「聖ヨハネ・コロニア王国」がこの群島の主であると言っていることはほとんど知られていない。
 「聖ヨハネ・コロニア王国」は、元来、フィリピンの提督であったTomas Clomaが、第二次大戦後の1947年にスプラトリー諸島で建設した植民地が元であるという趣旨の説明がこの王国のHPに書かれている。
 1974年にClomaが引退したとき、1426人の市民(住民と訳すべきかもしれないが、原文はcitizen)が王国におり、1995年の調査では2557人に増加していたそうだ。
 王国には憲法も政府もあり、外交、通商、財政などの機能も果たしている。つまり、国家を形成するのに必要な領土も、国民も統治の事実もあるというわけだ。
 誰も知らないこの王国がスプラトリー諸島に対して諸国家と同様の領有権の主張をしていると言ってもまともに受け取ってもらえないだろうが、以下に紹介するその国際法的根拠は決して弱くない。

 「スプラトリー諸島は1938年に日本が領有を宣言し、「新南群島」と命名していた。これは国際的に認められたことであった。第二次大戦後の1947年、Clomaは日本軍が去って無主地となった「新南群島」に植民地を建設し、日本と連合国との平和条約交渉が終わるのを待って各国に承認を求める考えであった。しかし、平和条約で日本は「新南群島」を「西沙群島」とともに「放棄」したにとどまった。
 そこで、Clomaは自らが建設した植民地であることを示す標識などを建てるとともに、独立した領域である”Free State of Freedomland”であると宣言した。名称はその後変更・アップグレードされ今日の“Kingdom of Colonia”となった。」
 たしかに、サンフランシスコ平和条約で日本は「新南群島」と「西沙群島」を「放棄」したにとどまり、どの国に属するかは同条約で決定されなかった。
日本は別途台湾(中華民国)との間で日華平和条約を結んだが、この条約では「新南群島」と「西沙群島」について、サンフランシスコ平和条約の規定を確認したにとどまった。つまり、日華平和条約においても、これら2つの群島の帰属は決定されなかった。
 中華民国政府(台湾)と中華人民共和国政府(中国)はそれぞれ、「十一段線」「九段線」の主張で南シナ海の大部分をかこったが、それらは一方的に宣言したことにすぎず、日本が「放棄」した2群島がいずれかに帰属するのではない。また、フィリピンやベトナムもそれぞれ国内法でこれらの群島に対して領有権を主張しても、国際法上の権利が発生するわけではない。
 つまり国際法的には、中国、台湾、フィリピン、ベトナムの主張にかかわらず、「新南群島」は無主地となったのであり、その群島を支配したKingdom of Coloniaの権利が優先すると言っているのであり、それは一つの考えかもしれない。少なくともそれを否定するのは容易でないだろう。
 フィリピンとしてはClomaがフィリピン人であったことを理由に、「新南群島」に対して領有権を主張するのかもしれないが、これはCloma自身の考えとは異なる。フィリピンの主張を認めるか否かは別問題だ。
 
 ともかく、日本が「放棄」した後の2群島の帰属はサンフランシスコ平和条約では未定であり、その後帰属を決定する行為が行われなかったことまでは比較的容易に確認されるだろう。では、これら2群島は未来永劫に無主地だというのが国際法の解釈か。これも問題だ。そうすると、コロニア王国の主張も重みを帯びてくる。7月12日の仲裁裁判はどのような判断を下すのか注目される。

なお、コロニア王国には内閣に相当する事務局(Seretariat)があり、憲法ではアンボン島(インドネシア)に置かれていることになっているが、現在はロンドンの 123 Whitehall Court にあるそうだ。
 
2016.07.06

(短文)南シナ海に関し東インド会社の資料が物語ること

 あまり語られないことだが、英国やフランス(英国人やフランス人というほうが適切かもしれないが)は17世紀からスプラトリー諸島(南沙諸島)を知っていた。もちろん、地元の漁民は彼らが関係する限りにおいて状況をよく知っていただろうが、英国やフランスは外来者であったために調査が必要であり、またその結果比較的系統だって南シナ海の実情を知ることになったと思われる。
 南シナ海の調査をしたのは英国の東インド会社(EIC 1600年設立)やフランスの東インド会社(1604年設立)であり、EICは平戸に1604年商館を設置しており、17世紀の初頭には南シナ海にとどまらず、東シナ海から、さらに我が国まで行動範囲を拡大していた。それだけ航海能力があったからであり、当時彼らが世界で最もよく南シナ海の情勢を把握していたと思われる。
 調査結果を示す海図が現存している。EICは18世紀の終わりころから専門の水路測量学者に南シナ海の実情を調査させ、1821年に南シナ海の海図を出版した。この海図はインターネット上で閲覧可能である(”A Geographical Description of the Spratly Islands and an Account of Hydrographic Surveys Amongst those Islands”で検索可能)。
 これより以前、17世紀の初期に作られていた南シナ海の海図があり、現在は英オクスフォード大学のポドリアン図書館に保存されている。南シナ海の地図としてはこちらのほうがむしろ有名であり、2014年に米紙(ウォールストリート・ジャーナル)が報道したので広く知られているが、日本ではあまり注意されなかったようだ。
 残念ながらこの地図の制作者は不明だが、やはりEICが関係していた可能性がある。この地図がカバーしているのは、北東は日本から、南はチモール島までであり、南シナ海も東シナ海も含んでおり、中国の泉州港からこの海域の主要港との間の方位と距離が示しているのが特徴だ。ビル・ヘイトンの『南シナ海』によれば、この地図は「南シナ海の歴史に対する見かたをがらりと変えた」といわれるほど歴史資料として価値があったらしい。
 航行の目的地までの方位と距離に関する情報として東インド会社が製作した地図が活用されたのであろう。アジアのことについて英国やフランスの情報が頼りにされたのだが、当時の歴史的状況に照らせば自然なことだった。
 ポドリアン図書館の地図は中国との関係を詳しく説明しているが、それは取引上の便宜によることであり、地図の制作者は一方で広大な海域を範囲に収めつつ、他方で、中国の泉州港を経由する貿易の便宜を考慮していた。
 領土問題が起こるのはもっと後のことである。中国領土の範囲について、18世紀以来の中国の資料は一貫して海南島を最南端としていた。
2016.07.04

英国のEU離脱―その2 英国の外交力

 EU離脱と英国の外交力とは何の関係があるのか。簡単に言えば、英国の外交力はコミュニケーション能力に加え、外交についての豊富な経験とノウハウに基づいており、この特質はEUを離脱しても変わらない。今後その力がどのように発揮されるかが一つの注目点だと思う。
 中国も英国の外交力を利用して国際社会での発信力を強化しようとしている節がある。日本としても英国を欧州市場への橋頭保としてだけでなく、戦略的な観点から英国との関係強化を図るべきだ。(詳しくは東洋経済オンライン6月27日付、「英国のEU離脱と中国への接近」を参照いただきたい。)

 英国の外交力を示す例として、戦前、戦後、それに最近の事例を一つずつ挙げておく。
 戦前の例としては1902年に結ばれた日英同盟があった。日本は清国との戦争で勝利したが、ロシアの満州、朝鮮への進出の圧力を受けており、それにいかに対抗するかが外交・安全保障上の最大課題であった。一方、英国は世界各地でロシアの南下を警戒しており、利害関係が一致した日英両国は同盟関係を結んだ。英国は日本とともにロシアと戦争したわけではないが、日本がロシアと戦争するのに、情報の提供、ロシア・バルチック艦隊が遠路極東へ回航する際に英国の支配地では水や食料の供給を拒否するなどの間接的支援を与えた。ソフトの面で強力な援軍だったのだ。
 
 戦後、米国をはじめとする連合国は日本との戦争を終了させ、清算するためにサンフランシスコで平和条約交渉を行った。最大の難問はソ連をいかに満足させるかであり、米ソは、日本の関連では北方領土問題を巡って鋭く対立した。米国は、歯舞・色丹両島のみならず国後および択捉両島も日本の領土だという日本の主張を支持していたが、戦争終了数カ月前のヤルタ会談で米国のルーズベルト大統領はソ連のスターリン書記長に対し「千島列島を引き渡す」と述べた経緯があり、苦慮していた。
 日本は、「千島列島」は国後・択捉両島を含まないと主張していたが、この主張は成り立たないとする意見も強かった。米国は日本の主張を支持しつつ、法的解釈については英国の意見を求めた。英国は「国後・択捉は千島列島に含まれない」という解釈には難点があるとしつつ、解決策を複数提示し、その後の交渉進展に貢献した。当時米国は連合国を勝利に導いた国として圧倒的な影響力を持っていたが、国際的に解釈が分かれる問題については英国の意見を求めた。英国の主張は国際的に説得力があると米国は思っていたのだ。

 最近の例としては2013年に国連で採択された武器貿易条約がある。武器の取引を規制すべきだという考えは戦前からあり、日本は戦後、国連を中心に規制の推進に熱心に取り組んできた。
 米国では銃による市民の殺傷事件が発生するたびに銃の規制が必要だと指摘されるが、憲法による銃保持の権利保障を根拠に、かつ、武器産業からの反対が強いため実際には規制が進展しないのが実情だ。米国は国連などの場でも銃規制が進展することを強く警戒しており、そのような方向に進みそうになると早期に芽を摘み取ろうとするのが通例である。
 英国は主要な武器生産国の一つであるが、EUの一員として武器の取引規制には積極的であり、今から約十年前より武器貿易条約の原提案国となって日本など規制に積極的な国とともに条約を成立させた。米国はこの条約を原案の段階から反対してつぶすことも可能であり、またそうするのが米国らしい対応だったが、英国は米国の拒否を巧みに回避して、条約交渉を進めた。これができたのは英国だけであり、英国が動かなければ2013年の条約成立は困難だったと思われる。

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