平和外交研究所

ブログ

オピニオン

2019.09.25

イランの核合意見直しに関するローハニ大統領の発言

 国連総会に出席中のイランのローハニ大統領は9月24日、記者団に対し、「制裁が解除されれば、米国が一方的に離脱した核合意に関し、小さな修正や追加について議論する用意がある」と述べたと伝えられた。

 この発言をもってイランが米国と対話する考えになったとはただちには言えない。「制裁が解除されれば」という条件が付いているし、「小さな修正や追加について議論する用意がある」というのもどれほどのことか明確でない。したがって、ローハニ大統領のこの発言は表面的には従来からの姿勢と変わらないと言えるかもしれない。

 しかし、この発言はやはり注目される。

 第1に、この発言全体が穏やかな口調で語られており、トランプ米大統領に、米国が希望するなら条件次第で対話に応じる用意があるとのサインを送っていると解釈できるからである。

 ローハニ大統領は、欧米諸国からも積極的に評価される人物であることは差し引いてみなければならないが、それにしてもこの発言は穏やかである。

 第2に、9月14日、サウジアラビア東部のアブカイク及びクライスにある石油生産・出荷基地に対して行われた無人機(ドローン)攻撃に関し、イランに厳しい姿勢を取る米国は、当初、イランを責めていたが、その後慎重姿勢に転じた。一方、23日には英独仏の首脳がサウジへの攻撃には「イランに責任がある」との共同声明を行った。従来、欧州諸国はイランに理解を示し、米国の一方的離脱には批判的であったのと比べると逆の形になったのである。

 英独仏が言っている「イランに責任がある」とは、イランが攻撃したという意味でない。慎重に言えば、イランが「関与した」ということであり、具体的には攻撃をしたイェーメンの反政府勢力フーシ派を、「止めなかった」、あるいは「何らかの便宜を与えた」ことなどがありうる。

 そして注目すべきは、この厳しい声明に対するイランの反応が穏やかなことである。しかも、その声明の後でローハニ大統領は米国との対話に関して穏やかな、積極的とも見られる発言を行ったのである。つまり、きついことを言われたのにローハニ氏は穏やかな発言を行ったのである。この時系列も見逃せない。

 さらに、ローハニ大統領の、英仏独の煮え切らない態度に業を煮やして「制限破り」の第3弾を行うとの9月4日の発言とも著しくトーンが違っている。このように見ていくと、ローハニ大統領は「イランに責任がある」ことを、明言はできないが、事実上認めているのではないかと思われる。

 では、一体、イランの誰が攻撃に関与したのかという疑問が残る。ここから先はさらに大胆な仮説になるのだが、イランの内部には必ずしも大統領の了承なしに国際的に問題となる行動をする者がいるのではないかという仮説である。仮説は安易に拡大すべきでないが、ホルムズ海峡で起こっていることはこのような仮説が正しいことを裏付けているとも解釈できる。

 ともかく、今回の石油施設攻撃は断じて許されない蛮行であったが、これを奇貨として、イランと米英仏独が穏やかな解決に向けて前進してもらいたいものである。

2019.09.20

ネタニヤフ・イスラエル首相の一部パレスチナ併合宣言

 イスラエルの総選挙(定数120)が9月17日に行われた。さる4月の総選挙では、ネタニヤフ首相が率いる与党リクードは35議席を獲得したが、連立政権樹立に失敗したので、今回「やり直し総選挙」が行われた。

 しかし、出口調査では与野党の獲得議席数が拮抗(きっこう)しており、この選挙結果では連立政権樹立が成功する公算は低いという。かといって、3度目の選挙となれば国民の反発は避けられず、ネタニヤフ首相が率いる与党リクードと元参謀総長のベニ・ガンツ氏が率いる中道野党連合「青と白」との大連立を促す声も出ている。これも成功しない場合、ネタニヤフ首相は退陣を迫られるとの観測も現れている。

 また、ネタニヤフ氏には汚職の疑惑がかかっている。ネタニヤフ首相が国内通信大手に便宜を図った見返りに、傘下のニュースサイトで好意的な報道を要求したことなど、検察は3件の汚職容疑でネタニヤフ氏を起訴する方針だという。首相は被告人になることを回避するためにも、議会で多数派を握って「刑事免責」法案を可決したいところだが、連立政権が失敗するとそれもできなくなる。

 しかし、連立工作が進まないのは今回が初めてでない。そもそもイスラエルの総選挙において単独で過半数を獲得した政党はなかった。最多の議席は1969年総選挙でマアラハ(労働党)が獲得した56であった。イスラエルは建国の経緯からマルチエスニシティ国家であり、そのことが国政にも反映して小党の乱立状態になっていることが根本的な問題である。

 その中では、「中道右派」のリクードと「中道左派」の労働党が比較的大きく、ともに首相を輩出してきた。しかし、労働党は、指導者であったラビン元首相が1995年に暗殺されて以来衰退傾向となり、選挙のたびに議席を減らした。

 2019年2月21日に結成された「青と白」連合(ガンツ党首の回復党とイェシュ・アティッドのラピド党首の連合)は、4月の総選挙でリクードと同数の35議席を獲得し、労働党は5議席に落ち込んだ。この結果を見れば、「青と白」が労働党に代わってイスラエルの主要政党になるような気もするが、多数の政党が乱立するイスラエルでは今回の結果だけを見て中長期的な傾向を予測することは困難であろう。

 ネタニヤフ首相は再選挙を一週間前にした9月10日、自分の続投が決まれば、パレスチナ(政府は自治政府なので「パレスチナ自治区」とも呼ばれる)の一部をイスラエルに併合する、との強硬方針を表明した。選挙の結果は今回も楽観できず、右派の支持を固める必要があったためである。

 イスラエルとパレスチナの地理的状況は日本人にはわかりにくい。現在、イスラエルの東側にパレスチナがあり、その東がヨルダンである。つまり、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンが西から東へ並んでいる。パレスチナとヨルダンはヨルダン川を境に分かれているのでパレスチナは「ヨルダン川西岸」と呼ばれることもある。

 ネタニヤフは、このパレスチナのうち、ヨルダンと境界を接する領域を併合すると発表したのだ。その広さはパレスチナの約3分の1。それがもし実現すると、イスラエルの東に領土を削られたパレスチナがあり、その東がイスラエルが奪った領域であり、さらにその東がヨルダンとなるのである。そうなると、パレスチナは西側のイスラエルと東側の新イスラエル領に挟まれるという奇妙な状況になる。

 パレスチナは3分の1もの領土を奪われては黙っておれず、イスラエルと全面戦争になる危険もある。ヨルダンにも大きな影響が及び、イスラエルや西側諸国に友好的でなくなるとも言われている。それに国際社会が黙っていない。国連安保理では、イスラエルは決議違反を犯したと糾弾されるだろう。トランプ大統領はネタニヤフ首相の強力な支持者であるが、パレスチナの併合まで支持し続けることはできなくなるかもしれない。

 それでもイスラエルがこの地を奪おうとするのは、安全保障上の理由からだという。イスラエルと敵対するパレスチナにヨルダンから物資や武器が自由に搬入されるのを監視し、阻止する必要があるというのである。

 また、イスラエルの超正統派ユダヤ教徒の間には、パレスチナはもともとユダヤ人の土地だという考えがあるそうだ。今回の選挙でも、「ラビ(宗教的指導者)が言うからパレスチナ併合を支持する」と公言してはばからないネタニヤフ支持者がいる。

 イスラエルから時折法外な主張が出てくるのは、そもそも、エジプトとヨルダン以外のアラブ諸国がイスラエルの存在を認めないからであり、また、パレスチナと激しい敵対関係にあるからである。イスラエルがそのような環境にあることには国際的に一定の理解があるが、パレスチナの3分の1を奪うことなどは到底認められない。

 イスラエルのこれまでの指導者はパレスチナを奪うことの危険性と非現実性をよくわきまえており、ネタニヤフとしても実現しないのを見越して選挙目的のため危険な宣言をした可能性もあるが、それはそれで危険なかけである。そんなことまでせざるを得ないネタニヤフ首相が退陣に追い込まれるのはそう遠い将来のことではないかもしれない。
2019.08.21

昭和天皇の反省とシビリアンコントロール

 NHKは8月16日から3日間、田島道治初代宮内庁長官が昭和24年から5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を報道した。昭和天皇が、サンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典を控えて何を述べたいかを田島に語り、それに対する田島の意見を求め、さらに田島が吉田首相と必要な調整を行った結果を報告したことなどを、手帳やノート合わせて18冊に詳細に記したものである。昭和史についての第一級の資料だという。
 
 旧陸軍あるいは一部軍人が政府の考えに忠実に従わなくなり始めたのは、中国で1924年に起こった第二次奉直戦争からであったといわれている。

 昭和天皇はその2年後に即位し、以後大事件の連続に見舞われた。昭和三年(以下、昭和の年号表記による)には張作霖爆殺事件、六年には関東軍による柳条湖爆破事件(満州事変)が起こり、翌七年にはリットン調査団、満州国独立、日本による満州国の承認(日満議定書)と事態が進み、各国との対立が抜き差しならなくなった日本は八年に国際連盟を脱退した。九年には主要国の主力艦保有を制限していたワシントン条約を廃棄、十年にはロンドン軍縮会議からも脱退して、艦艇の保有制限を取り払ってしまったので欧米との対立は決定的となった。まさにあれよあれよという間に日本は各国と対立していったのである。

 国外での強硬路線と並行して、国内では軍部、あるいは一部軍人、あるいは右翼による凶行が相次いだ。五年に浜口雄幸首相の狙撃事件、六年にクーデタ未遂事件(三月事件と十月事件)、七年には井上準之助(浜口内閣の蔵相)や三井の総帥、団琢磨の暗殺(血盟団事件)、犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が起こった。

 そして十一年二月二十六日に二・二六事件が発生し、さらに十二年七月七日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)、十六年十二月八日の米英蘭に対する宣戦布告と拡大していったのである。

 要するに、昭和天皇の即位から20年間、ほぼ毎年国家的大事件が起こったのであり、天皇の立場は想像もつかないほど困難だっただろう。今回公表された「拝謁記」によれば、昭和天皇は敗戦に至った道のりを何度も振り返ったそうだが、その心情は我々普通の国民としてもよく理解できる。

 昭和天皇の発言内容については、大きく言って、二つの重要な点があった。その一つは昭和天皇が「反省」という言葉を使いたいと強くこだわり、「私はどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったことである。「反省といふのは私にも沢山あるといへばある」「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内にうまく書いて欲しい」などと述べている。

 しかし、田島長官から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などといって「反省」に反対した。

 昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べたが、最後は憲法で定められた「象徴」らしく首相の意見に従った。昭和天皇は戦争への深い悔恨を国民に伝えたいと強く望んだが吉田首相の反対で盛り込まれなかったのである。

 もう一つの重要点は、昭和天皇が自分の意思に反することが次々に起こったことに無念の気持ちを抱いていたことが、天皇自身の言葉で語られたことである。

 戦前、天皇の意思が実現しなかったことは何回かあり、天皇が疑念や不満を表明していたことは歴史の研究で明らかになっていた。たとえば、天皇が張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責したこと、二・二六事件の際には「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と指示したこと、太平洋戦争の開戦に当たっては戦争を避ける方策の探求を繰り返し求めたが、戦争に突入することになってしまい、強い無念の言葉を残したことなどである。

 「拝謁記」においては、昭和天皇が個々のケースに限らず、軍に対する全体的な評価として、「下剋上」という、極度に強い言葉を用いていたことが判明した。天皇は、自らの指揮下にあるはずの軍が天皇に従わなかったとみていたのである。天皇は「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」などとも語っていた。

 この発言はいわゆるシビリアンコントロールがいかに困難かを示している。旧憲法下で天皇は日本国の元首、統治権の総攬者であり、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有し、軍の関係でも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた(第11条)。天皇は軍の最高指揮官だったのである。しかも、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされていた(第3条)。天皇はこれだけの権利と権威をもちながら、軍の専横を止められなかったのである。

 旧憲法は文民統制(シビリアンコントロール)の概念に欠けていたという説明もあるが、シビリアンコントロールの制度があっても、それだけでは政府と異なる意見を主張して引き下がらない軍を抑えることはできない。現憲法は、第66条2項で「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定することによりこの制度を定めていると解説されるが、この規定だけではシビリアンコントロールは機能しない。先般の南スーダンへ派遣された自衛隊の例を見ても、防衛大臣は自衛隊を統制できなかった。

 シビリアンコントロールの本質は究極の強制手段を持つ軍を政府の方針に従わせることである。これを、すべての大権をもつ天皇でもできなかった。つまり旧憲法体制でもできなかったのである。新憲法で定めている「首相や防衛大臣による統制」ははるかに微弱である。

 念のため付言しておくが、軍のすべてを否定しているのではない。旧軍はよく日本を守り、また、国威を発揚してくれた。立派な軍人ももちろん多数いた。しかし、愚かなこと、危険なこと、日本を危機にさらす結果になったこともした。それが軍の現実である。

 憲法改正論において自衛隊の憲法への明記(軍として?)が論じられるが、今の自衛隊が普通の軍になる、あるいはそれに近づくのであれば、シビリアンコントロールについて徹底した検討が不可欠であり、真に機能するシビリアンコントロールのためにはどうすればよいか、何が必要かを究明する必要がある。それがいかに困難かを昭和天皇の言葉は雄弁に物語っているのではないか。

アーカイブ

検索

このページのトップへ

Copyright©平和外交研究所 All Rights Reserved.