平和外交研究所

ブログ

オピニオン

2015.03.23

安保法制‐「自衛」か「紛争に巻き込まれない」か

(この文章を読まれる方は3月15日の「安全保障関連法案‐国連決議を条件にするべきだ」も参照されることをお薦めします。)

 多国間の安全保障としては、①紛争が継続している状況で活動する多国籍軍、および②休戦あるいは和平が成立している状況で行なわれる平和維持活動、の2種類の活動が主である。
 与党が合意した共同文書「安全保障法制整備の具体的な方向性について」(以下「共同文書」)においては、①と②に加え、③「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」があるとし、この種の活動についても一定の条件の下に自衛隊が参加する道を開いている。多国籍軍についてはすでに論じたので、本稿では②と③の平和維持活動について論じる。

 順序は逆になるが、③について、共同文書は自衛隊が参加する条件の一つとして「国連決議に基づくものであることまたは関連する国連決議などがあること」を掲げているが、この条件は具体的にどのような意味か分かりにくい。
 まず、「国連決議に基づくもの」であるが、③は国連でない平和協力活動の場合であり、その場合に「国連決議に基づく」ことはありうるか。常識的にはないだろう。平たく言えば、国連決議があるのに国連でない平和協力活動などないと思われる。
 共同文書は「国連決議に基づくもの」に続けて、「またはこれに関連する国連決議などがあること」を条件としている。これも分からない。「関連する」とは何に関連するのか不明である。「国連決議など」の「など」とは何か、これも不明である。
 与党の中では説明があるのかもしれないが、国民にとっては、このように自衛隊が参加する条件という重要なことが不明確なままになっている。
 あえて想像すれば、③は過激派組織「イスラム国」に対する空爆のような事態を指しているのかもしれない。空爆は、「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」に当てはまるからである。しかし、もしそうであれば、自衛隊がそもそも参加することを認めるべきかという基本的な問題があり、かりにそれを肯定するとしても、その条件は明確になっていなければならない。共同文書の記述ははなはだしく不明確であり、国民には不親切である。

 一方、PKOについて共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」と述べている。これには原則賛成したい。
 冒頭で①と②の区別として指摘したように、PKOは停戦あるいは和平の成立を前提として行なわれる業務である。かりに、停戦が崩れるとPKOは撤退する。実際にそのような例はある。停戦ないし和平を前提とするというPKOの基本的性格は維持されている。
 しかるに、PKOへ自衛隊が参加する場合、武器の使用について制限を課していたのは、自衛隊は「自衛」の範囲を超えて武器を使用できないという立場であったからである。なぜ「自衛」に限っていたか。これを理解するには日本国憲法が成立していらいの経緯にそって自衛隊の在り方を見ていくのが便宜である。
 憲法が制定された際、日本に「戦力」はまったくなかった。自衛隊らしきものは一切なかったのである。いわゆる絶対平和主義の時代である。しかし、数年後それはあまりに現実から遊離しており、日本国の防衛のためには武器を持つ部隊が必要であり、それは憲法においても禁じられていないという解釈となり、自衛隊が創設された(名称は変わったが、ここでは煩雑になるのでとくに言及しない)。
 しかし当初は、自衛隊は海外へ派遣できないと解釈されていた。海外に出ると国際紛争に巻き込まれる恐れがあるからである。しかし、この解釈を厳格に維持することも現実に合わなかった。たとえば、航海訓練などで海外へ出ていくのはどの国でも当たり前のことである。とくに問題になったのはPKOであり、1990年の湾岸戦争を契機に日本はPKO法を成立させ自衛隊などが国連PKOに参加する道を開いた。その限りにおいてはいわゆる「海外派兵」は可能となった。
 しかし、そうなっても自衛隊は「自衛」しかできないという方針は変わらなかった。自衛隊員が武器を使用できるのは自らを守るためだけであり、他国の部隊が危険にさらされても武器は使用できない。つまり、憲法下で厳禁されている「武力の行使」が例外的に許されるのは「自衛」の場合だけだという立場は変わらなかったのである。
(日本では「武器の使用」と「武力の行使」は区別されているが、これも煩雑なことになるので、本稿では同じ意味とみなし、文脈次第で使い分けている。)
 現在もその解釈は変わっていない。2014年7月の閣議決定が集団的自衛権を行使できる道を開いた際、憲法解釈が変わったと評されたが、日本国憲法は「自衛」の場合に限り武力を行使できるという解釈は放棄しなかった。
 具体的には、集団的自衛権が必要となる他国に対する攻撃であっても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」は、「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容される」と記載した。外国が攻撃された場合に防衛に協力するという国際間の問題を、「自衛」という日本国憲法のふるいにかけたのである。
 そうすることは憲法擁護、憲法解釈の一貫性の観点から積極的に評価される面があったが、集団的自衛権の行使という国際間の問題を、「自衛」という我が国の問題に転換させることに他ならず、不可能を可能にするくらい困難な離れ業であった。
 共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」とだけ記載した。今まで「自衛」でないからという理由でできなかった範囲の武力行使ができるようになる、と読める。たとえば他国のPKO部隊が危険な状態に陥った場合、それを助けることは「自衛」でないからわが自衛隊はできないと解してきたが、共同文書によればそれができるようになるようである。そうなると、憲法違反の問題が出てくるはずであるが、共同文書はどのような理屈を考えているのか何も説明していない。

 ここでもう一度、PKOは紛争が終了したことを前提に成立していることを想起してもらいたい。従来自衛隊がこれに参加する場合も、「自衛」の範囲内ということで自衛隊員の生命を守るためにしか武器を使用できないというのが日本の立場であったが、PKOという国際の場で「自衛」に徹することはそもそも無理ではなかったか。国際社会における我が国の責任を果たすためにPKOへの参加を認めざるをえなくなったが、憲法の解釈を変えるわけにはいかないという制約のために、国際社会でも我が国の論理を貫いたのであり、やむをえず採用した方便であったと思われる。しかし、その方便には限界があり、「自衛隊員は隊員自身の生命を守るためだけに武力を行使できる」という非国際的な結論にならざるをえなかった。
 このように従来は憲法の武力行使禁止の例外はつねに「自衛」の例外で見てきたが、国際的観点から憲法を見なおしてみると、PKOへの参加は「自衛」であるか否かにかかわらず日本国憲法に反しないと見ることが可能である。すなわち、憲法が禁止しているのは国際紛争を解決する手段としての武力行使であり、国際紛争が終了しているPKOにおいては、日本が国際紛争に巻き込まれることはそもそもありえない。したがって、PKOは憲法の禁止に当てはまらない事態として憲法解釈を再構築することが可能であると考える。
 もちろん、日本国憲法が武力の行使を禁止し、また戦力を持たないこととしてきたこと、その下で現実の事態に照らして「自衛」だけは憲法に触れないという解釈を導き出してきたことは我が国の戦後の歴史において重要なことであった。しかしながら、「自衛」には限界があることがますますはっきりしつつある今日、「自衛」論にこだわるべきでない。一方、日本国憲法を再度読み直してみれば、国際紛争に巻き込まれる危険がないPKOでは憲法の禁止に触れないと解釈できるし、それは自然な解釈である。その場合、「自衛」論がなくなるわけではない。自衛隊はあくまで「自衛」の範囲内で活動する。しかし、それと同時に、自衛隊は海外でPKOなどに参加し、必要に応じて武器を使用する。それが憲法に触れないことはPKOの本来的性格である「紛争がない状態である」ことにより担保されている。
 さらに、PKOにおいては、国連決議は必ず存在し、決議のないPKOはない。このことも重要なことである。多国籍軍の場合、国連決議の存在を絶対の条件とすれば、米国から100点満点をもらえないだろうことは3月15日に述べたが、PKOの場合はそのような問題もない。
 多国籍軍とPKOを通じて、国連決議の存在を条件とすることは日本国憲法の国際紛争に巻き込まれることの厳禁にもっともよく調和する。また、憲法を離れても、国連決議が成立しないのは各国の意見が割れているからであり、そのような場合には我が国はとくに注意し、自制してよいのではないか。何もしないというのではない。意見が割れている場合には武器行使につながることはしないということである。
 日本では「歯止め」の有無がよく問題になる。もちろんこれは重要なことであるが、国際的に理解されるかと言えば、疑問がある。「国際貢献は自衛の範囲内に限る」も「集団的自衛権の行使はできるが自衛の範囲内である」も国際的には分かりにくい。表現は若干簡略化したが、閣議決定、あるいは共同文書の文言をそのまま使っても各国には分かってもらえないどころか、ますます分かりにくくなるだろう。このような観点から見ても「自衛」だけで自衛隊の行動を律することは限界にきていると考える。
 安保関連の法律を整備するにあたって、「自衛」を貫くのがよいか、それとも「国際紛争に巻き込まれない」という柱を立てて行くのがよいか再検討すべき時が来ている。

2015.03.15

安全保障関連法案‐国連決議を条件にするべきだ

 安全保障関連法案に関し政府および与党による協議・検討が続けられている。いわゆる多国籍軍の活動に何らかの形で自衛隊が参加、あるいは協力するのに国連決議があることを条件とするか否かが問題になっており、「決議」がなくても国連が「ブレッシング」を与えている場合は認めようという考えがあるようだが、国民として憂慮せざるをえない。

 国連安保理では国際的な紛争が審議されても決議は成立しないことがある。もっともよく起こる不成立のケースは、中国とロシア(いずれか一方でも成立を阻止することは可能だが、両国共同の場合が多い)が反対する場合であり、そのためにこれまで数多くの決議案が葬られてしまった。
 もっとも、中国やロシアとしても、解決の手段について、とくに軍事介入の必要性について意見が異なるのであって、問題を解決しなければならないことは認めることが多く、このような状況では「国連のブレッシング」があるとみなすことが可能かもしれない。そうすると決議に反対する国があっても自衛隊を派遣することが可能となるが、日本は、多国籍軍と国連決議の実態について明確な認識に立った上で対応を決める必要がある。
 そもそも、多国籍軍は、国連が設立された当時期待されていた、強制力を伴う集団安全保障が機能しえない現状において、やむをえず使われている代替手段であり、国連憲章には規定がなく、その性格は本来的に不明確である。
 安保理において多国籍軍に対してどのような期待を表明し、また、行動を要請するかについてはさまざまな例あり、審議の結果決議が成立すれば国連としての意思は明確になるが、それが成立しない場合には、「国連としてブレッシングがあった」と言えそうな場合もあれば、そうでない場合もあるなどまちまちである。
 決議が採択されるか否かについて、中国とロシアが反対する例に言及したが、反対するのは中国とロシアに限られず、西側の諸国の中にも反対に回る国が出ることがある。イラク戦争の場合、ドイツとフランスは行動を起こすことに反対した。
さらに、決議が採択されたか、されていないかについても意見が割れることがある。これもイラク戦争の時に起こった。
 決議が成立しない場合に、構わず行動を取る国と、慎重な国がある。米英などは、決議がなくても、あるいは決議の有無について見解の相違があっても行動を起こすことがありうる。
このように多国籍軍の場合は、その不明確性のためにさまざまな解釈が生じる可能性があるので、国連としての意思を明確に示す「決議」が採択されていることの意味は大きい。それが成立しない場合は何らかの意見の相違があるのである。
 日本の場合は、一方の意見に賛成するのはもちろん構わないが、国連の意思が統一されていない状況で多国籍軍に参加して自衛隊を派遣すると、憲法が厳禁している国際紛争に日本が巻きこまれることとなる危険がある。「国連のブレッシング」だけを条件にすることの問題はこの点にある。
 さらに多国籍軍は、行動を開始した時点では正当な理由があったとしても、後に問題が起きる可能性は排除できない。多国籍軍は平和維持活動と異なり、国連事務総長の指揮下になく、多国籍軍に参加しているいずれかの国の司令官が指揮を執る。後日問題が発生すれば、安保理があらためて審議し、対応を検討するが、結論が出るまでは時間がかかる。

 日本が「国連決議のない多国籍軍には協力しない」という方針で臨むと、米国などから百点満点はもらえないだろう。しかし、米国と日本が違っていても何ら恥じることはない。米国には、「国際紛争に巻き込まれてはならない」という禁止はないどころか、米国は国際の平和維持のために場合によっては紛争に巻き込まれることも必要と考えることができる国である。しかし、日本は違う。日本は戦争で苦痛に満ちた体験をして、「国際紛争を起こしたり、巻き込まれたりしない」という禁止を自らに課したのではないか。その禁止は憲法を順守する観点からのみならず、日本の国際社会での生きざまとしても大事にすべきである。日本はやはり「国連決議」を行動の条件とすべきである。

2015.03.14

原発を危険にさらす無人飛行機ドローン

 無人飛行機ドローンが原発にとって危険なものとなりつつあるが、日本でそのことが十分伝えられているか疑問がある。
 2014年10月、フランスで原発の上空にドローンが侵入する事件が相次いで発生した。昨年12月21日付のThe Independent通信や2月24日付のニューズウィーク誌は、この事件を調べた英国の原子力専門家John Largeがつぎのように説明したと報道している。
○侵入事件は合計で13回あったが、そのうち5回は大西洋海岸からドイツとの国境の間の地域に広範囲に散在している原発において、数時間の間に一斉に起こっており、何らかの意図をもって計画的に行われた。
○この時使われたドローンは民間機だが、テロリストが試験的に使っている恐れは排除できない。事件に使われたドローンはヘリコプター式で、数十キロ飛行可能な強力なエンジンを搭載し、原発を照射する強い光線を発射する機会も積んでいた。カメラも装備していたと推定される。
○この他、パリでも正体不明のドローンが飛行しているのが目撃されている。また、同時飛行事件に先立って、Belleville-sur-Loireでは3人の男女が、インターネットで入手可能な、比較的簡単で100ユーロくらいのドローンを飛ばそうとして逮捕されたが、政治的意図はないことが判明し釈放された。Flamanvilleではアレーバ社の再処理施設の上空にもドローンが侵入した。
○英国でも電力需要の18%を賄っている16の稼働中原発が危険にさらされている。現存の原発はサイボーグ攻撃を想定していない。2014年中、英国の原子力施設で37件の警備ミスが起きており、抜本的な警備強化と原発の安全性診断を早急に行うよう求めたが、英政府は規制当局the Office for Nuclear Regulationに回しただけで自分たちで真剣に検討しようとしない。
○グリーンピース・フランスの要請で報告書はまとめ提出した。グリーンピースはこの報告書を公表していないが、政府は入手可能である(なお、Large 自身はグリーンピースの支持者でないと説明されている)。
○1月にフランスの原子力安全・規制局、仏防衛省と会う予定である。
○ドローンによるテロ攻撃のシナリオとしては、「まず、ドローンが外部電源を破壊し、次に緊急用ディーゼル発電機を破壊する。冷却電源を失った原子炉は30秒で炉心溶融を始め、放射性核分裂生成物が飛散する」ことが考えられる。また、内部の仲間と連携すれば、ドローンが爆弾を運ぶ必要はない。

 日本の原発も同様の危険にさらされているはずである。対策を強化する必要があるのはもちろんであるが、原発の脆弱性にかんがみると完全に防ぐことは可能か、大いに疑問である。
一方、ドローンの性能は急速に向上しており、今や高度1万フィート(約3千メートル)を飛行できるもの、映画ジュラシック・パークに出てくる翼竜ほど大きいものも出現している。コンピュータ制御も行われている。
 ドローンに対する需要は急増しており、日本政府はその普及に向けた特区を設ける検討を進めている。また、早急に強い規制を導入する必要性も認識されている。これら、比較的技術的な面では日本はよく対策を講じるであろう。
 しかし、問題はドローンを使用したテロ攻撃である。わずかな間違いも許されない原発においては違法に侵入してくるドローンは即座に撃ち落さなければならないが、それは可能か。有効な対策はほかにあるか。今後、従来に増してドローンの危険性に注意していく必要がある。
 なお、前述のニューズウィーク誌は、現状では、フランスのほとんどの原発はドローンを利用した攻撃に耐えられないので、閉鎖されるべきだと述べている。これは常識的には極論であろうが、問題意識の高さを表している。

アーカイブ

検索

このページのトップへ

Copyright©平和外交研究所 All Rights Reserved.