平和外交研究所

オピニオン

2021.04.17

日米首脳会談2021

 菅義偉首相は16日午後(日本時間17日未明)、ホワイトハウスでバイデン米大統領と初の首脳会談を行った。

 今回の会談では、予想通り、中国及び台湾について踏み込んだ意見交換が行われた。会談後の共同声明によれば、中国については、「インド太平洋地域及び世界の平和と繁栄に対する中国の行動の影響について意見交換するとともに、経済的なもの及び他の方法による威圧の行使を含む、ルールに基づく国際秩序に合致しない中国の行動について懸念を共有した」。また、「中国との率直な対話の重要性を認識するとともに、直接懸念を伝達していく意図を改めて表明し、共通の利益を有する分野に関し、中国と協働する必要性を認識した」。つまり、今次会談では、中国についての懸念と中国と協働する必要性の両方が表明されたのであるが、具体的な問題については次の3点が注目された。

1 中国関係

「(米国は)日米安全保障条約第5条が尖閣諸島に適用されることを再確認した」。また、「(日米両国は)共に、尖閣諸島に対する日本の施政を損おうとするいかなる一方的な行動にも反対」した。

「(日米両国は)東シナ海におけるあらゆる一方的な現状変更の試みに反対した」。

「(日米両国は)南シナ海における、中国の不法な海洋権益に関する主張及び活動への反対を改めて表明するとともに、国際法により律せられ、国連海洋法条約に合致した形で航行及び上空飛行の自由が保証される、自由で開かれた南シナ海における強固な共通の利益を再確認」した。

「(日米両国は)香港及び新疆ウイグル自治区における人権状況への深刻な懸念を共有」した。

2 台湾関係

 「(日米両国は)台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促」した。

 日米首脳の合意文書に「台湾」が盛り込まれたのは、日中国交正常化前の1969年に佐藤栄作首相とニクソン大統領が出した共同声明以来であるとのコメントが行われているが、その時と現在では台湾をめぐる客観情勢が大きく違っており、当時は台湾が「中華民国」として、日米両国を含め大多数の国と外交関係を結んでいた。
 
 今回の会談で台湾海峡についての言及が行われたことについては、中国の反応はもちろん、その出方を注視していく必要がある。自信をつけ、わが道を進み、民主主義諸国との厳しい対立も辞さないという姿勢を強めている中国は、今後台湾についてどのような動きに出てくるか、展開いかんでは極めて危険な状態になりうる。
そんな中、日本としては、米国の同盟国として、また民主主義国の一員として、中国との関係のかじ取りは今後いっそう困難になる可能性がある。今回の首脳会談はそのような新しい国際的展開への一歩ではないかと思われる。

3 北朝鮮関係

「日米両国は、北朝鮮に対し、国連安保理決議の下での義務に従うことを求めつつ、北朝鮮の完全な非核化へのコミットメントを再確認するとともに、国際社会による同決議の完全な履行を求めた」。「日米両国は、(中略)北朝鮮の核及びミサイル計画に関連する危険に対処するため、互いに、そして、他のパートナーとも協働する」。「バイデン大統領は、拉致問題の即時解決への米国のコミットメントを再確認した」。

2021.04.02

領土問題に関する日本の立場(要点)

 我が国の領土問題に関する立場である。日本政府の立場とは異なる部分が含まれているが、ご参考まで。

領土問題に関する日本の立場(要点)
2021/04/01

1 総論
〇歴史的な根拠の有無は重要な問題だが、「固有の領土」と主張するだけでは解決困難。
〇法的地位が決定的である。終戦に際し、日本は「戦後の日本の領土は連合国が決定する」という(とんでもない)ポツダム宣言を受諾した(せざるを得なかった)。そしてサンフランシスコ平和条約で日本は朝鮮や台湾などを放棄した。形式は日本の「放棄」だが、実質的にはポツダム宣言の実現であった。しかし、その解釈をめぐって領土問題が発生した。
〇国際司法裁判所や常設仲裁裁判所で解決できれば紛争を避けることができる。が、実際には困難。

2 尖閣諸島

〇歴史的経緯
(明清時代)
中国の領土については、明清時代の公文書である『大明一統志』などに中国大陸のみが領土だという趣旨が記載されていた。
中国は、明代の海防の範囲を定めた文書(籌海図編)に尖閣諸島が記載されていたことを挙げるが、海防の範囲は領有権の範囲でない。
また、中国は冊封使の記録に尖閣諸島が記載されていることを挙げるが、それは中国からの渡航経路の目印として出てくるものであり、実効支配していたことを示すものでない。

(日清戦争)
中国は、尖閣諸島は「戦争の結果、台湾の付属島嶼として日本に割譲した」と主張。
これに対し日本は、「1885年に調査を行い、95年1月に日本の領土として編入した。日清戦争が終了する95年4月の3か月前から日本の領土となっていた」との立場。ただし、この立場は弱いとする論者もいる。

(新中国成立後の立場)
中国は、1971年までは尖閣諸島が日本領であると認めていた。1953年1月8日『人民日報』などにも明記されていた。

(中国の海洋戦略)
中国は1992年、「領海法」を制定し、尖閣諸島、台湾、南シナ海の島嶼をすべて中国領と定めた。これが中国の海洋戦略の基礎となり、膨張的行動を行っている。

〇法的地位
 日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したが、尖閣諸島を放棄したとはどこにも書かれていなかった。尖閣諸島は沖縄と同様同条約3条により処理されたと解され、米国の信託統治下におかれた。そして1972年の沖縄返還協定で日本に返還された。
 米国が統治した沖縄の範囲は米国民政府布告第27号(1953年12月25日付)で定義されており、尖閣諸島はその中に入っていた。

(ICJでの解決)
 日本からも中国からもICJでの解決を求めたことはない。なお、玄葉光一郎外相は2012年11月20日付のNYT紙に、「日本は尖閣諸島を実効支配しており、中国がそれにチャレンジしようとしているので、なぜICJで解決しようとしないのかという質問は中国に向けられるべきである。日本はICJの強制的管轄を受諾している。いろいろと主張しているのは中国であり、中国はなぜICJの強制的管轄を受け入れて主張しないのか」という趣旨の投稿を行った。微妙な表現なので原文を掲げておく。
“Why does not Japan refer the issue to the International Court of Justice?
This is a question that is often wrongly directed toward Japan. It is Japan that has valid control over the Senkaku Islands under international law, and it is China that is seeking to challenge the status quo. The question should be posed to China.
Japan has accepted the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory. Since China is undertaking various campaigns to promote their assertions in international forums, it seems to make sense for China to seek a solution based on international law. Why don’t they show any signs of accepting the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory and taking their arguments to the I.C.J.?”
3 北方領土

〇歴史的経緯
1855年、日本とロシアの国境を定めた「日ロ通好条約」において、日本とロシアの国境は「択捉島と得撫(ウルップ)島の間」とされた。
1875年、「千島樺太交換条約」で千島列島はすべて日本領とし、樺太は全島ロシア領となった。
 この二つの条約は戦争と関係なく、平和的な交渉の結果であった。
 
 第二次大戦終結後、ロシア(当時はソ連)は北方領土を含む全千島列島を「占領」した。このことは連合国間で承認されたが、国境を定める法的な効果はなく、サンフランシスコ平和条約で千島列島の法的解決が得られるはずであった。ソ連は条約交渉に参加していたが、戦後の自由世界と共産主義国との対立が原因で、条約成立を待たずに脱退してしまった。そのため日本とソ連との間の戦争状態の法的処理は同条約の枠組みではできなくなり、領土問題も未解決のまま残された。
 
日ソ両国は1956年、平和条約交渉を行い、その結果、日ソ共同宣言で両国は外交関係を再開することとなった。しかし、領土問題と平和条約問題については合意が得られず、平和条約交渉を続けることとなり、その交渉が合意に達した後、ソ連は「歯舞群島および色丹島」を日本に「引き渡す」ことに合意した。
 
その後、東西の冷戦が激化し、日ソ間の交渉は進捗しないどころか後退することもあったが、1973年の田中首相とブレジネフ書記長、1991年の海部首相とゴルバチョフ書記長、1993年の細川首相とエリツィン大統領、橋本首相とエリツィン大統領などの会談において平和条約交渉を前進させる努力が続けられ、細川・エリツィン会談後発表された東京宣言では、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」と明記された。
1998年には橋本首相からエリツィン大統領に対し、領土問題解決のためのさらなる提案(川奈提案)を行ったが、後にロシアは受け入れできないと回答してきた。
 
しかるに、プーチン大統領は「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進めよう」と突如言いだし、2018年11月、安倍首相はシンガポールにおいてこの提案に合意した。これは日本の歴代の首相がロシア側と懸命な努力を重ね、とくに日ソ共同宣言では記載されなかった「4島」を、具体的名称まで両国間の合意文書に書き込んだことを無視することだと批判された。
 
時間をさかのぼるが、米国の影響は日本とソ連との2国間交渉のころから及んでおり、日本は、「ソ連に不当な譲歩をするなら沖縄を返さない」と言われたこともあった(ダレスの恫喝)。
 いまでも、米国との関係はロシアとの北方領土問題に影を落としている。北方領土が返還された場合、米軍基地を置かないという条件を明確に示さなければならないとプーチン大統領が要求していることである。プーチン氏は、そのことについて合意文書まで要求しているそうだが、それは日本の主権を無視する要求であった。プーチン氏は米国といかに対抗していくかが最重要問題であり、その枠の中で日本との関係をとらえているのでそのような要求をしてきたのであった。
 あまり言われないことだが、筆者個人としては、日ロだけでなく、米国も加わって解決するのがよいと思っているが、米国がそれに応じるか分からない。

〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を放棄したのは事実である。しかし、日本は「千島列島」をロシアの領土だと認めたのではない。もちろん米国領だとみなしたのでもない。つまり、日本が放棄した後の「千島列島」の帰属は未定なのである。
 日本政府の交渉方針も一貫しておらず、4島返還でなく、2島であってもよいという考えがあったのも事実であった。しかし、そうだからと言って、ロシアの主張が正しくなる(ロシアの獲得する島の数が多くなる)わけではない。

ロシアは、「戦争の結果としてロシアが取得した」と主張しているが、ロシアの領土主張を裏付ける根拠は皆無である。戦争の結果ロシアは「千島列島」を獲得してよいとどの国も認めていない。第二次大戦後米国がソ連に認めたのは「千島列島」を「占領」することだけであった。
ロシアは心の中では法的問題が解決していないことを自認している。だからこそ、ロシアは日本に対し、千島列島に対するロシアの主権を認めるよう求めている。ロシアの平和条約案第5条が「日本国はいっさいの付属島嶼を含む樺太島南部および「千島列島」に対するソヴィエト社会主義共和国連邦の完全なる主権を承認」するよう求めていることがその証左である。
要するに、日本もロシアも領土問題を解決し、平和条約を締結することを必要としているのである。

〇ICJでの解決
1973年(昭和47年)10月23日にモスクワで行なわれた日ソ外相会談において、大平外相より「北方領土の領有権問題」をICJに付託することを提案した。しかし、ソ連のグロムイコ外相はこれを拒否した。

4 竹島

〇歴史的経緯
外務省のパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』は要旨次の通り記載している。
 
「日本は古くから竹島の存在を認識していた。
韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はない。韓国があげる古文献には「于山島」の記載があるが、これが「竹島」であるとは言えない。これは鬱陵島のことだという見解もある。
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立していた。
17世紀末、朝鮮との友好関係を尊重して、幕府は日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じた。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されている。つまり、幕府は鬱陵島への渡航は禁止したが、その一方で、竹島への渡航は禁止しなかったのである。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかである。」

注1 このパンフレットは、重要な経緯の一つであった明治10年(1977年)の太政官決定が、「竹島外一島の儀は本邦と関係のない儀と心得べきこと」と述べていたことを記載していないという問題がある。幕府の姿勢には矛盾した点があるとも考えられるのである。
注2 1905年、日本政府は隠岐島民の願い出を受け、閣議決定によって同島を「隠
岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名した。外務省パンフレットは「これにより、我が国は竹島を領有する意思を『再確認』した」と記述しているが、もし明治政府がその以前から竹島を領有していたと認識していたのであれば、閣議決定などしない。「再確認」はパンフレットの作成者の言葉に過ぎない。

 第二次大戦が終結した後、竹島は米軍の演習地となった。
サンフランシスコ平和条約の発効が間近になった1951年、韓国は、条約案に竹島が言及されていないことに不満で、鬱陵島などと同様日本が放棄することを明記するよう求めたが、米国は応じなかった。
翌年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を、竹島を含む形で一方的に設定した。しかし、当時は米軍が訓練に使用していたので手出しはできなかった。
 1953年、竹島を在日米軍の訓練地から解除することが日米合同委員会で合意された。韓国は沿岸警備隊を竹島に派遣し始め、監視所、灯台、接岸施設、宿舎等を構築し、警備隊員を常駐させた。日本からICJでの解決を提案したが、韓国は応じなかった。
 
〇1965年に日韓基本条約・請求権協定が締結された際のやり取り
 1962年、請求権問題について大筋合意がなされた際、日本側から国際司法裁判所で解決を図ることを提案したが、韓国側は拒否。
 1965年6月17日(条約署名の5日前)、条約と共に署名されることとなっている「紛争解決に関する交換公文」において「両締約国間のすべての紛争は(略)竹島に対する主権に関する紛争を含み」との文言を記入することを日本側より提案したが、韓国側が反対したため、結局交換公文は「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする。」となった。
日本政府は、「紛争の解決に関する交換公文にいう「両国間の紛争」には、竹島をめぐる問題も含まれている」「大韓民国による竹島の不法占拠は、我が国として受け入れられるものではない」との立場である(2007年4月3日、鈴木宗男衆議院議員の質問に対する外務省の回答)。

2012年8月、李明博大統領は韓国大統領として初めて竹島に上陸した。

〇法的地位
 サンフランシスコ平和条約2条a項では、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載され、竹島は日本が放棄することになっていない。
 この草案内容を知った韓国は、前述したように交渉中の1951年7月、米国に対し、「第2条a項の日本の放棄に関する文言は『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換える」よう要望した。「独島」は「竹島」の韓国名であり、要するに、竹島も日本が放棄すると平和条約で明記してほしいと要請したのであった。
 これに対し米国は、「竹島に関しては、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と返答し、条約案の修正要求に応じなかった(ラスク極東担当国務次官補から梁(ヤン)大使への書簡)。
 この経緯から、日本は竹島を放棄していないことが明白である。

〇ICJでの解決
日本から1954年(李承晩ラインが宣言された年)、1962年(日韓間で請求権の扱いについて大筋合意された年)、2012年(李明博大統領が竹島に上陸した年)に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国側は拒否し続けた。韓国政府は、韓国の法的立場が弱いことを自認しているからであろう。
1954年当時、米国も韓国に対してICJでの解決を勧めていた。1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告に「米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件をICJに付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行った」との記録が残されていた。

2021.03.31

海警法の何が問題か

海警法と中国の海洋戦略について一文をザページに寄稿しました。
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