平和外交研究所

中国

2013.09.30

最近の路線闘争 2

約1週権前に路線闘争含みの論争をまとめたが、その続き。
○1950年代前半の高崗問題。親ソ派で、一時は中国東北地方を支配下に収めた。スターリンが死亡した後、毛沢東との対立が表面化し、独立王国を作ったと批判され、失脚した。最近の議論は高崗の名誉回復に関するものが多い。
○周永康(2012年秋まで政治局常務委員)に関する議論。追及の手が及んでいるとするものが多い。その子に対する調査が開始したとも報道された。石油閥であり、最近調査が開始された蒋潔敏国有資産監督管理委員会主任(大臣クラス)の先輩格。習近平の反腐敗闘争の目玉になる可能性がある。
○薄熙来関係。蒋潔敏は薄熙来を支援したそうだ。そのほか、薄熙来が重慶で活躍していた頃、前期の政治局常務委員6人が相前後して重慶を訪れ、薄熙来が唱えていた「革命を重視し、悪者をたたく(唱紅打黒)」ことに賛成したと司馬南(学者)が指摘した。このツィッター(微博)は、しかし、既に削除された。習近平も6人の一人であったことはよく知られている。
○毛沢東は教条主義を戒め、徹底した調査を呼びかけた、と毛の擁護と取れる論評もある。
○趙紫陽(天安門事件で学生に同情し過ぎて失脚した中共総書記)が、80年代の保守派(左派)の主要人物の鄧力群といかに対抗したかを論じるもの。これは、現在左派の影響力が強まっていることに対し、戦うことを呼びかけたものか。
○その他。わいろ送るにも、受け取るにも最近代理人を介して行なうようになっている。また、それには専門家・学者や退職した幹部が好まれるという(北京青年報 9月23日)。

2013.09.23

薄熙来裁判

薄熙来元重慶市党委書記に対し、済南市中級人民法院は9月22日、無期懲役の判決を下した。
薄元書記は収賄、横領および職権乱用の3つの罪に問われているが、判決自体はともかく、その判断の根拠となった事実関係についてはどうしても不明確さがぬぐえない。また、政治(党の指導)との関係も問題である。
第1に、中国の裁判は共産党の指導下にある。胡錦涛前党総書記も習近平現総書記も形式的には党のトップとして、また実質的には薄熙来の政治局員として地位と影響力にかんがみ、薄熙来の解任と裁判に承認を与えたことは明らかであるが、薄熙来の追求にどの程度積極的な役割を果たしたのか不明である。
第2に、薄熙来は、革命を重視し、特権を持たない人民のための施策に積極的であった(それだけでないのが問題であるが)ために一般の国民の間にかなりの支持者がある。習近平主席は経済建設と革命をそれぞれどの程度重視していくべきか、困難なかじ取りを迫られているが、薄熙来の裁判が二つの路線の微妙なバランスに影響を与える可能性はないか。
第3に、胡錦涛時代の政治局常務委員で政法(司法など)の担当であった周永康が現在腐敗撲滅運動の関係で追及されようとしている(と見られている)。腐敗はいつでもどこでもあり、司法の担当として責任を問われる危険はつねに存在するという意味ではむしろ日常的なことであるが、何らかの事情で、たとえば権力闘争の結果政治局内で支持を失えば、状況は一変する。責任を追及する材料など容易にみつけられる。薄熙来が周永康に頼っていたことも問題になりうる。もっとも、習近平も薄熙来の重慶における業績を積極的に評価していたが、支持者が多いので追及されない。
第4に、重慶市時代の側近であった王立軍元重慶市副市長(以前には公安の担当であった)が米国総領事館へ駆け込み、身の安全を訴えたことは否定も、ごまかしもできない事実として残っている。裁判で王立軍は証言したらしいが、何と言ったのか。王立軍の証言内容がほんとうに明らかになるのは、数年、あるいは十数年の時間が必要かもしれない。

2013.09.22

最近の路線闘争か

最近1~2月間だけ見ても、中国のメディアでは次のような歴史問題に関する議論が戦わされている。項目と背景だけを紹介するが、現在の革命重視か、経済建設重視かの路線闘争と多少なりとも関係しているのであろう。ここにも現在の中国の一特徴が表れているように思われる。

○廬山会議
1959年、江西省の避暑地、廬山で開催された中国共産党(中共)の会議で、それまで毛沢東が旗を振って進めてきた経済的合理性を無視した極端な革命運動(総路線、大躍進、人民公社など)を彭徳懐将軍(朝鮮戦争に参加した中国軍の司令官)が批判したので、怒った毛沢東が巧みに会議を利用して彭徳懐を批判、追い落とした。
○陸定一と文革
陸定一は毛沢東と同年代の人物で、長らく宣伝工作の第一人者であったが、1966年、文革で批判され失脚した。文革の初期においては、劉少奇など、後に文革で倒される毛沢東の最大のライバルも陸定一を批判していた。陸定一が名誉を回復されたのは改革開放以後のことである。
○陳独秀
中国共産党の草創期を語るのに欠かせない人物で、清朝末期の秀才。初代中共総書記。毛沢東にとっては大先輩だが、トロツキーに共鳴し、その結果、国民党のみならず、共産党とも敵対する結果となり、失脚した。近年は同人の功績をそれなりに評価するようになっており、中国で伝記も何冊か出版されているが、それでもまたぞろ議論されているのである。
○趙紫陽は鄧力群といかに対抗したか
1980年代は改革開放の時代として知られているが、その時も革命路線を重視するグループと胡耀邦や趙紫陽ら改革派との間に激しい争いが存在し、胡耀邦が失脚した後は、革命路線を重視する鄧力群と趙紫陽の間で、どちらが胡耀邦の後任として党の総書記につくかせめぎあいがあった。総書記になったのは趙紫陽であるが、1989年6月の天安門事件で学生らに同情し、結局革命路線重視派に足元をすくわれる形で失脚した。
○林彪
林彪は1971年9月、突然家族や側近数名と飛行機で北京郊外からソ連へ向け逃亡を企て、モンゴルで墜落して死亡した。林彪は中共の副主席として、毛沢東の後継になることが約束されていたと見られていただけに、なぜそのようなことをしたのか。外部から見ると奇怪な事件であった。現在は当時の状況がかなり明らかになっており、やはり権力闘争があり、また、林彪の野望があったことが分かっている。

中国では、党の指導により歴史は書き換えられる。客観的、学術的に信頼性のある研究、著書は少なく、国民は(と言っても一定のレベル以上の人であるが)その時々の党の方針に注意しておかなければならない。ここに紹介した議論は、そのような意味合いを持っている可能性が大きい。
一般的には、毛沢東が登場する議論は、革命路線が行き過ぎであり、経済建設路線が重要であるということを訴えるものが多いが、そこはよく注意してみていく必要がある。陳独秀の場合は、毛沢東より極端であった側面があり、その再評価には革命路線重視の意味合いがあるのかもしれない。
中国では政治目標や路線は今後も変化しうる。ここで紹介した議論や、現在習近平が重視している「意識形態」に関する議論も注意が必要である。

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