平和外交研究所

中国

2014.08.05

中国の中東和平5項目提案

王毅外交部長は8月3日、シュクリ・エジプト外相と会談した後の記者会見で、中東和平に関する5項目の和平提案を説明したと同日の新華社電が伝えている。提案の内容は次の通りである。
① イスラエルとパレスチナは即時に停戦し、空襲、地上の軍事行動、ミサイルの発射等すべてを停止すべきである。武力を乱用し、市民を殺傷する行為は認められない。力を持って力を抑える(以暴制暴)ことを止めるべきである。
② 中国はエジプトなど諸国が提出した停戦案を支持する。イスラエルもパレスチナも武力で一方の要求を実現しようとすることを放棄し、責任を持って交渉し、双方の安全を実現し、またそのために必要な保障体制を設立するべきである。その過程において、イスラエルはガザ地区の封鎖を解除し、拘留しているパレスチナ人を解放すべきである。同時に、イスラエルの合理的な安全への懸念を重視すべきである。
③ イスラエルとパレスチナの衝突の起源はパレスチナ問題が長期にわたって解決できないところにある。中国は一貫してパレスチナ人の独立と建国への正当な要求と合法的権利を支持している。イスラエルとパレスチナの双方は和平交渉を揺るぎのない戦略的選択とし、おたがいに善意を示し、和平交渉をできるだけ早期に再開すべきである。和平交渉においては面と向き合って行なわなければならず、反対方向に走ってはならない。
④ イスラエルとパレスチナの衝突は国際の平和と安全に関わる。安保理は衝突を回避するのに責任を負い、コンセンサス作りに努め、その機能を発揮しなければならない。国際社会はおたがいに協力し、和平を推進する力を形成しなければならない。
⑤ パレスチナ、とくにガザ地区の人道問題に関わる状況を重視し、その有効な解決を図らなければならない。国際社会は適時に必要な援助と支持を与えるべきである。中国は、ガザの人々に150万ドルの緊急人道援助をキャッシュで行なう。中国紅十字回も人道援助を行なう。

7月21日に「平和外交研究」で紹介したが、中国はイスラエルおよびパレスチとの関係を積極的に進めており、2014年に入って3回特使を派遣した。王毅外交部長のエジプト訪問はそれに続く外交攻勢である。
米国がこの中国の姿勢をどのように見ているか、興味をそそられる。イスラエル・パレスチナ問題が困難であるのは言うまでもなく、米国でさえ難渋しているのに中国として何ができるか、中国自身楽観的になれないはずであるが、中国としては新疆ウイグルの問題などに関連してイスラム原理主義者の動向に神経をとがらせている現在、中東外交の幅を広げる必要性を感じているものと思わる。また、中東問題で圧倒的な影響力を持つ米国の動向を横目で見ながらの外交攻勢であろう。
おりしも、『大公報』紙は4日、ケリー米国務長官がイスラエル側と交渉する一方で中東の他の諸国の指導者と電話で協議するのをイスラエルと「さらに1カ国」の情報機関に盗聴されていたことを報道し、米・イスラエル関係が緊張する可能性があるとコメントしたドイツの週刊誌スピーゲルの記事を紹介している。ケリー長官は協議を行なうためこれまで10回以上イスラエルを訪問しているが、うまく行っていないというのはほぼ常識になっており、大公報に限らず中国系の新聞はかなり綿密に米国の動向を報道している。
大公報の報道の直後(おなじ4日)に、ハマスとイスラエルはともに3日間の停戦を受け入れると発表した。今後本格的な停戦交渉に入るそうだ。

2014.08.02

流転した故宮博物館の宝物

7月9日、キヤノングローバル戦略研究所のホームページに掲載。

「6月28日、NHKスペシャル は「流転の至宝」を放映した。故宮所蔵の宝物のことである。これまで何回も拝観していたが、今回はこれまでとは少し異なる角度から興味を覚えた。中国人がその優れた文化財を大切にし、また、それが中国のイメージを改善する力を持つことを認識していたことである。
話は1935年までさかのぼる。その年の11月から100日間、ロンドンで中国芸術国際展覧会が開かれ、故宮の文化財735点が披露された。その2年前、日本軍は満州から山海関を越え華北に侵入し、国民党政府は日本軍と共産党軍に挟まれていた。日本政府はいわゆる廣田三原則を掲げ、国民党政府に共産党軍を掃討するよう圧力を強め、軍部は「北シナ政権を絶対服従に導く」とますます強気になっていた。一方共産党軍は、抗日救国の8・1宣言を発し、いわゆる長征を敢行して長期戦に入った。
この大変な状況のなかで大量の文化財をロンドンに運ぶ余力がどこにあったのか不思議なくらいであるが、ともかく英国の軍艦「サフォーク号」に展示物を運んでもらった。英国は中華民国が幣制改革を行ない銀本位制・通貨管理制を導入するのに協力しており、関係がよかったのである。
中国芸術国際展覧会を訪れたイギリス人は42万人にものぼり、一種の中国ブームが沸き起こった。宋代の皇帝の衣装を模したファッションなどが流行したそうである。この展覧会は中国美術コレクターの呼びかけが始まりだったが、蒋介石は英国政府に両国主催の展覧会にすることを求め実現した経緯があった。ロンドン大学のアントニー・ベスト博士は、日本と戦う中国政府の「文化的プロパガンダ」戦略があったと分析している。
一方、日本政府は、満州事変を調査したリットン卿が展覧会に関わっていることを知って危機感を募らせ、英国政府に問題だと申し入れたが、展覧会は予定通り開かれた。中国側の目論見は成果をあげ、日中戦争になった際には中国を支持する人が増えていたとベスト博士は見ている。
 故宮博物院が設立されたのは辛亥革命から13年後の1925年であった。清朝末期には文化財が外国に流出しており、国民党政府は成立当初から危機感を抱いていた。日本軍が山海関を越えると国民党政府はいち早く故宮の文物を5つに分け、約2万箱を上海など南部に運んだ。その準備は1931年の満州事変後すでに開始していたと言う。
 1937年、盧溝橋事件が勃発すると上海から南京に移していた文物を、さらに南路、中路、北路の3つのルートで奥地へ避難させた。南路で運ばれた80箱の文物は、ほとんどが中国芸術国際展覧会に出展した逸品であり、武漢を経由して長沙、貴陽、安順の各地を経て四川省巴県に運んだ。中路で運んだ9331箱は、漢口、宜昌、重慶、宜賓を経由し、最後に四川省の楽山安谷郷に安置した。北路経由の7287箱は、津浦鉄道に沿って徐州まで、さらに隴海鉄道で宝鶏まで運んだ後、漢中と成都を経て、四川省の峨眉に運んだ。北京に残されていた文物も、後に南京経由で重慶からさらに奥地に運び、四川省南渓に移した。
 1948年秋、内戦で国民党軍が劣勢に立つと、政府は文物を台湾へ移すことを決定し、同年末から3回に分け、約2千箱を移送した。量的には上海へ移したものの約2割であったと言う。これが台北の故宮博物院に展示された。
 故宮の文物が移送されるきっかけとなったのはいずれも中華民国の命運を左右する大事件であり、国民党政府は早め早めに手を打って移送したのであるが、保護し、輸送するのにかかった経費も人手も半端なものでなかったはずである。これを実行した指導者の見識の高さもさることながら、その決定を支持した中国人も偉かった。このような大作戦は少数の指導者が決定すればできることではないだろう。
 政治の逆風に抗して故宮の宝物を守ってきた中国人にはみずからの文化に対する愛着と誇り、それに自分たちで故宮の宝物を守らなければならないという強い思いが感じられる。中国の国家体制は歴史的に何回も変わってきたが、中国の文化、ほんとうに優れた文化伝統は不変である。
また中国人は、中国の優れた宝物を外国人に見せることによって対中国イメージを改善し、味方につけることにも役立つと考えている。そういう意味では、中国人はいわゆるソフト・パワーの力を昔から知っていたように思われる。

2014.08.01

中国雑記 7月31日まで

○中国は、昨年11月の東シナ海防空識別圏に続き、最近「東海連合作戦指揮センター」を設置した(大公報7月29日付)。
○2014年10月、第18期4中全会を開催することが決定された。当面の経済情勢を検討し、下半期の経済工作を討議するのが主要な議題(新華社7月29日付)。
○国務院は7月30日、「戸籍制度改革をさらに前進させることに関する意見」を発表した(人民日報7月30日付)。

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