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2014.08.02

流転した故宮博物館の宝物

7月9日、キヤノングローバル戦略研究所のホームページに掲載。

「6月28日、NHKスペシャル は「流転の至宝」を放映した。故宮所蔵の宝物のことである。これまで何回も拝観していたが、今回はこれまでとは少し異なる角度から興味を覚えた。中国人がその優れた文化財を大切にし、また、それが中国のイメージを改善する力を持つことを認識していたことである。
話は1935年までさかのぼる。その年の11月から100日間、ロンドンで中国芸術国際展覧会が開かれ、故宮の文化財735点が披露された。その2年前、日本軍は満州から山海関を越え華北に侵入し、国民党政府は日本軍と共産党軍に挟まれていた。日本政府はいわゆる廣田三原則を掲げ、国民党政府に共産党軍を掃討するよう圧力を強め、軍部は「北シナ政権を絶対服従に導く」とますます強気になっていた。一方共産党軍は、抗日救国の8・1宣言を発し、いわゆる長征を敢行して長期戦に入った。
この大変な状況のなかで大量の文化財をロンドンに運ぶ余力がどこにあったのか不思議なくらいであるが、ともかく英国の軍艦「サフォーク号」に展示物を運んでもらった。英国は中華民国が幣制改革を行ない銀本位制・通貨管理制を導入するのに協力しており、関係がよかったのである。
中国芸術国際展覧会を訪れたイギリス人は42万人にものぼり、一種の中国ブームが沸き起こった。宋代の皇帝の衣装を模したファッションなどが流行したそうである。この展覧会は中国美術コレクターの呼びかけが始まりだったが、蒋介石は英国政府に両国主催の展覧会にすることを求め実現した経緯があった。ロンドン大学のアントニー・ベスト博士は、日本と戦う中国政府の「文化的プロパガンダ」戦略があったと分析している。
一方、日本政府は、満州事変を調査したリットン卿が展覧会に関わっていることを知って危機感を募らせ、英国政府に問題だと申し入れたが、展覧会は予定通り開かれた。中国側の目論見は成果をあげ、日中戦争になった際には中国を支持する人が増えていたとベスト博士は見ている。
 故宮博物院が設立されたのは辛亥革命から13年後の1925年であった。清朝末期には文化財が外国に流出しており、国民党政府は成立当初から危機感を抱いていた。日本軍が山海関を越えると国民党政府はいち早く故宮の文物を5つに分け、約2万箱を上海など南部に運んだ。その準備は1931年の満州事変後すでに開始していたと言う。
 1937年、盧溝橋事件が勃発すると上海から南京に移していた文物を、さらに南路、中路、北路の3つのルートで奥地へ避難させた。南路で運ばれた80箱の文物は、ほとんどが中国芸術国際展覧会に出展した逸品であり、武漢を経由して長沙、貴陽、安順の各地を経て四川省巴県に運んだ。中路で運んだ9331箱は、漢口、宜昌、重慶、宜賓を経由し、最後に四川省の楽山安谷郷に安置した。北路経由の7287箱は、津浦鉄道に沿って徐州まで、さらに隴海鉄道で宝鶏まで運んだ後、漢中と成都を経て、四川省の峨眉に運んだ。北京に残されていた文物も、後に南京経由で重慶からさらに奥地に運び、四川省南渓に移した。
 1948年秋、内戦で国民党軍が劣勢に立つと、政府は文物を台湾へ移すことを決定し、同年末から3回に分け、約2千箱を移送した。量的には上海へ移したものの約2割であったと言う。これが台北の故宮博物院に展示された。
 故宮の文物が移送されるきっかけとなったのはいずれも中華民国の命運を左右する大事件であり、国民党政府は早め早めに手を打って移送したのであるが、保護し、輸送するのにかかった経費も人手も半端なものでなかったはずである。これを実行した指導者の見識の高さもさることながら、その決定を支持した中国人も偉かった。このような大作戦は少数の指導者が決定すればできることではないだろう。
 政治の逆風に抗して故宮の宝物を守ってきた中国人にはみずからの文化に対する愛着と誇り、それに自分たちで故宮の宝物を守らなければならないという強い思いが感じられる。中国の国家体制は歴史的に何回も変わってきたが、中国の文化、ほんとうに優れた文化伝統は不変である。
また中国人は、中国の優れた宝物を外国人に見せることによって対中国イメージを改善し、味方につけることにも役立つと考えている。そういう意味では、中国人はいわゆるソフト・パワーの力を昔から知っていたように思われる。

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2014.08.01

中国雑記 7月31日まで

○中国は、昨年11月の東シナ海防空識別圏に続き、最近「東海連合作戦指揮センター」を設置した(大公報7月29日付)。
○2014年10月、第18期4中全会を開催することが決定された。当面の経済情勢を検討し、下半期の経済工作を討議するのが主要な議題(新華社7月29日付)。
○国務院は7月30日、「戸籍制度改革をさらに前進させることに関する意見」を発表した(人民日報7月30日付)。

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2014.07.31

周永康の訴追

周永康元政治局常務委員に対する規律検査委員会の調査が7月29日、決定された。事実上の訴追開始である。習近平政権は腐敗退治に力を入れ多数の者を摘発してきたが、周永康はそのなかで最高位の人物であり、しかも司法や公安の担当であった。
胡錦濤政権時代政治局常務委員は9人で、「チャイナ・ナイン」と呼ばれ、絶大な権力を握っている。それに対する訴追など不可能に近く、改革開放が始まってからの30年間でも政治局常務委員の摘発はなかったであろう。重慶市長であった薄熙来は政治局員であったが、常務委員会入りする前に失脚した。

周永康は反腐敗運動のなかで標的となっていると何回も、種々のメディアで言われてきた。ほんとうに確認できることは少なかったが、今回の決定は噂が正しかったことを示している。噂を信じてよいなど、口にすべきことではないし、噂を過信して事実とみなしてはいけないが、中国に関しては、少なくとも要注意の問題であると考えておく必要がありそうだ。
噂が当たることは以前からあった。中国では事実が噂となって出てくるのは、言論の自由がなく、厳しい統制下に置かれていることと関係がある。噂と中国政府が発表することとどちらが正しいか、このようなことは他の国ではありえない質問であるが、中国では発表と言っても事実を歪曲できない発表と、プロパガンダとしての発表があるので、公式の発表と言っても信用できない場合がある。

訴追は周永康で打ち止めとなるか。ほとんどすべての中国ウォッチャーは、否定するだろう。さらに、曾慶紅元国家副主席まで追及の手が伸びるかが問題である。ここでまた噂を持ちだしたい。
「2003年3月、江沢民は国家主席を胡錦涛に譲ることに応じたが、腹心の曽慶紅政治局常務委員兼中央書記処書記を国家副主席とすることを胡錦濤に呑ませた。胡錦涛は鄧小平が生前、将来の中国共産党総書記に指名していた人物で、江沢民の系列ではない。江沢民の代理人である曽慶紅は何かと胡錦涛に立てついた。
2007年、第17回党大会に際して、曾慶紅とその仲間は、第1期の任期を終える胡錦涛は留任せず、曾慶紅に譲るべきだと主張したため、争いが生じた。反撃に転じた胡錦涛は曾慶紅の家族による汚職の事実を調べ上げ、党内で味方を増やして曾慶紅にその要求を諦めさせた。曾慶紅が要求を諦める代わりに出した条件は、賀国強と周永康を政治局常務委員に入れることであり、9人の常務委員のうち江沢民派は呉邦国、賈慶林、李長春、賀国強、周永康の5人となり多数を占めた。
この結果胡錦涛・温家宝コンビは重要問題について政令が出せなくなり、国内では「胡温政令不出中南海(胡錦濤と温家宝の政令は中南海(中国要人の執務場所)から外に出ない)」と揶揄された。
17回党大会では、江沢民派は薄熙来を常務委員にしたかったが、党内で支持が弱く実現しなかった。その代わりの妥協として習近平を認めた。江沢民や曾慶紅には、いずれ時が来れば習近平に迫って権力の明け渡しを要求する、場合によっては武力を行使してでもそれを実現しようという考えがあった。
習近平は政権成立以来腐敗問題で曾慶紅や周永康をきびしく追及しており、三中全会で最高権力機関である「国家安全委員会」を設立したのも江沢民派の牙城であった「政法委員会(司法と公安を牛耳る)」を徹底的に破壊するためである(注 胡錦涛もこの委員会を解体しようとしたと言われていた)。」
この噂に示されていることは権力闘争に他ならない。すさまじい闘争がすでに始まっているのであるが、さらに江沢民に及ぶことがあるか中国ウォッチャーならずとも気になることであろう。

習近平自身に腐敗問題はないか。今のところ噂はなさそうである。しかし、習近平に近い人たちのなかには問題のある人がいるかもしれない。中国では、どこから見ても政治的、道徳的に潔白な人間で通すことは容易でない。習近平についても薄熙来の問題が表面化する以前には重慶市を訪れ、薄熙来の業績を称賛したことがある。習近平が薄熙来と近い関係にあるというわけではないが、攻撃しようと思えばいろんなことが可能である。文化大革命の頃には、親どころか祖父の代まで調べられ、攻撃材料にされたことがあった。

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